「自殺」について

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文学者で自殺によって命を絶った人は多い。

芥川に太宰や川端、ほかにもいろいろと挙げればキリがない……。

自殺をする理由、しない理由

10代はよく小説やエッセイを書いていた。

文学の話をしたとき、ある人が「世を儚んで命を絶つ文学者の精神心理はわからないが、自殺をなぜするかわからない」と言っていたのを思い出す。

「自殺をするな」や「しないで」とはよく言われることである。

親は子に、友人はその友人に、夫は妻に。

最近、カウンセリングの勉強をはじめたことがきっかけで、かつて精神医学や心理学の本を読みあさっていたことを思い出し、また該当ジャンルの本を引っ張り出していた。

その中には、鬱病や躁うつ病に関する論文や専門書も含まれている。

有名どころでは、フロイトの「喪とメランコリー」やテレンバッハの「メランコリー」など、いわゆる”melancholy”や”depression”に触れているものが多く(といっても、一次文献なのだから当然なのだが)、そうすると、「鬱」についても考えたりする機会も増えてきている。

『喪とメランコリー』所収

「消えてしまいたい」の意味

うつは、回復期に自殺者が多いとはよく言われることである。

バイポーラー(双極性障害)に限らず、波が上がってきたところが制御が効きにくい。

「自殺」と、よく”メンヘラ”の人たちが使う「消えてしまいたい」というのは、たぶんに違いがあるように思う。

「消えてしまいたい」や「存在を消してしまいたい」というのは、決して我が身の命を絶ちたいわけではなくて、それよりも、いまの自己の立場から遊離して、その立場には立脚しつつ生きていることの責任から一時的に遁走したいという感じだと思う。

私だって、ふと調子が悪い場面で、自己に入り込み「自殺」と考えることはあるが、それが本当に、たとえ一時的なイメージまたは夢想であるとしても、命を絶つ自殺を思っているのかははなはだ疑問である。

それよりも、生をこの場から降りたい、さらにいえば、いままで素朴に引き受けつづけてきた「役割」「ロール」をかなぐり捨ててしまいたいという叫びなのかもしれない。

このあたりの心理を理解できないマジョリティからすれば、単に甘えだったり依存心だと一蹴されるだろう。

自己が築いた<ロール>に追い詰められて

「役割」を自己同一化しているとしても、それほどの「役割」は担っていないとは思うが、幼少期から培われてきた反射的な心理反応に自ら辟易しているのだろう。

その点で「消えてしまい」という場合、いままでの生をリセットして完全にレールから降りたいという感覚は痛いほどわかる。

「消えてしまいたい」人たちにとって、リフレッシュは一時的な気休めでしかなくて、リフレッシュもリラックスも瞬間的な清涼剤でしかない。

生から降り立ちたいのは、他人から押しつけられた「役割」ではなくて、生まれてから自らが選び取って敷設してきた種々の「役割」というレールからの離脱である。

生きながらにして死んでいる

生きているまま生から離脱するというのも、生には固執しながら念でとどまる『生き霊』のような様相を呈している。

生き霊となって私はどこにいくのか。

生きながらにして死んでいる生身の人間として、まだしばらく夜明け前をさまよっている。

2009年02月16日 執筆
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