世の中、大なり小なり霊感のある人は多いものの、霊能力を持つ者は少ない。
霊感と霊能者。
似て非なる見えない世界における才能であり、そこを混同するとなかなか生きづらいことになる。
霊感にも種類がある
『見える』霊感の力はほんの一部
いろいろな角度から見ることができるが、霊感は受け身であって霊能力は能動性が強いということができる。
一般に霊感というと「オーラが見える」「幽霊が見える」「未来をイメージできる」といったように、視覚的な感覚と思われていることが多い。
しかし、人間に五感があるように、霊感も五感を通して感知するものなので、「見える」という能力は一つの側面に過ぎない。
ただ、一般の人たちにも霊感があるとわかりやすいのが視覚的な感性のためというのもあるだろう。
「そこに白い服を着た女性が立っている」
とイメージを伝えるほうが人は理解しやすい。
現代は視覚偏重の社会となっているから「百聞は一見に如かず」で目に見えてわかることがあらゆる事象の証左になっているというのも致し方のないことだ。
視覚以外で感じるケース
ただ、どれほど視覚に頼りがちな一般社会になったとはいえ、聴覚や触覚、味覚や嗅覚というのもないがしろにはできない。
これは見えない世界でも同じことで、何かと視覚的な霊感を持つ者が取り上げられやすい反面、「言葉が聞こえる」「そこに立つと鳥肌が立つ」「その光景を見たらある味が舌に立ち上った」「突然、匂いを感じたが自分にしかわからなかった」など、視覚以外の霊感というのも確かにある。
そして、言葉とつながる聴覚とも関連するのだが、第六感という「理由はわからないが、なぜかそうなんだと確信を持つ」という感覚がある。
もちろん、霊感のベースに第六感があって、それぞれの感性の癖のようなもので、ある者は「霊が見え」ある者は「霊の声が聞こえる」など表現の個性が分かれてくるのは確かである。
現代社会にそぐわない第六感
この『理屈では説明できないが絶対の確信を持てる』という霊感が若干厄介なものなのだ。
ドライブの例え
たとえば、明日、車でドライブに行くとする。
視覚的な霊感を持つ者がドライブ先で不慮の事故を予知した場合、明日の事故の様子がイメージで浮かんだり、誰かが入院している姿が目に浮かんだりして、周囲に第六感が近い未来の危機を伝えているから明日は取り止めよう、とか、違うルートにしよう、などといったようにある程度視覚的情報を他者に説明することもできる。
一方、第六感の霊能者が危機を察知する場合、「なぜ変わらないけれど、明日は出かけない方が良い」といったように漠然とした情報になることもある。
ときには具体的にドライブ先の方角から嫌な感覚が流れてきて、いざ出かけようとすると体調不良になったり、違う用事が入って行けなくなったりなど、思わぬアプローチで危機を回避するケースも多い。
しかし、一般社会では「何かわからないけれど嫌な予感がするので、やりたくありません」というのは理由にならない。
視覚的な霊感によって危機を察知する場合でも正当な理由になるわけではないが、まだ説明のしやすさという点では楽なように思う。
視覚的霊感のつらさ
『見える』がゆえに混乱する人たち
オーラが見えたり、過去世や未来が視覚的に見えたりというのは、人生に役立ちそうでいてそうことは単純ではない。
見えない世界において過去世があるということは来世もあって、そして現世があってとなると、時間の分け方は混沌としてくる。
過去世があるという前提は未来からして今の自分は来世の前世であるし、ウロボロスの蛇が尾を飲み込んでいるように時間はすべて円環に完結して漂っていく。
つまり、同時並行的に過去も現在も未来もおもちゃ箱をひっくり返したように展開する。
縄文人が現代日本にやって来たら
もし現世の自分が縄文人だったとすると、現代の日本の社会はまったく理解ができないはずだ。
動物のように車が走っていたり、信じられない高さの建物がそびえていたり、当然視覚的に認識はできるもののそれらの存在の意味はわからない。
自分たちの言語によって世界を文節化できないままでは、それはサルトルの嘔吐の最悪版であり、禅僧であれば「山は是れ山、川は是れ川」として存在そのものをありのままに受容する世界である。
だが、私たちは感知し得たものを言葉を使って意味を与えることによって心を整理して、血肉に収納することができる。
もし数千年先の乗り物や人々の生活する空間を「霊感で見る」という感覚だけで覗いてしまったとき、ほとんどを意味として理解することはできないのではないだろうか。
視覚的に霊感を有する人たちは、それを始まりのない過去から終わりのない未来まで時空を幾重にも重層的に感知しながら、「ただ見えている」ということになる。
そして、多くの『見える』人たちは自分自身が『リアルに』見えたものであるにも関わらず、頭でも心でも処理しきれないまま混乱しながら過ごしていく。
一方、第六感で見えない世界をつかんだり、言葉によって伝えられる者は、こうした混乱からは回避されやすい。
もちろん、霊感を得ている段階ですでに感性の網の目が細かなことは確かなので、処理する情報量は現実のもの見えない世界のもの合わせて、膨大なものとなる。
ただ、実感によって確信を持ったり、言葉によるメッセージは、ただ見えるというケースよりは整理がしやすいといえるだろう。
霊感があるだけでは・・・
ただナイーブな人?
とはいっても残念ながら、ただ霊感があるだけでは感じやすい人と片付けてしまえば終わりである。
問題は霊感として察知した情報をいかに現実の世界で言語化したり意識化して理解しうるかに掛かっている。
さらに、見えない世界と現実の自分自身との間に確固とした境界を意図的に引いて、自と他を徹底して区別することが必要となる。
こうした力がわかりやすく考えれば霊能者と呼べるだろう。
霊感による情報をいかに理解していくか。
ある程度までは自分で両方を行えるものの、一定レベルを超えると本人だけの霊感や霊能力では限界がくる。
そこで本人の感じるものが実際に正しい情報なのか、どうやって現実世界に生かしていけばいいのかを判断する役割が必要となる。
正邪を見極める審神者の重要性
これが古くから神道でいう審神者(さにわ)である。
審神者は本来の意味でいう巫女(シャーマン)的存在の人物が神がかりをして発する言葉の正邪を客観的に判断する。
このように霊感をただ混沌とした情報として流すままにせず、その意味を正確に理解して社会に伝達できるものこそが霊能力を持つ者の大きな要素だといえる。
自他の区別を付けるというシンプルな方法
また、現実の世界でも見えない世界でも対象との距離をきちんと保って、変に同情することなく正当に区別までできなければ霊能者であるとまではいえないだろう。
あの場所を通るとなぜかいやな感じがするのはまだしも、通る度によくないものを見てしまってどっと疲れたり、自分の気持ちまでざわつくようであれば、霊感はあっても確固とした霊能者であるとは思えない。
人間なのでときには不意を突かれて好ましくない影響を受けることはある。
しかし、自分は自分、相手は相手という現実の世界でも当たり前の区別を付けられるかは霊感のように見えない世界の処理の仕方にも共通するポイントである。
境界線を超えて一体となるということ
境界線を引いて相手に下手な同情もしないし嫌な影響も受けない。
さらに、霊能者として才能が磨かれたりヒーリング技法を学んだりする中で、境界線を引いて区別を付けつつ、自と他は究極的にこの宇宙で一体を成す要素の一部であるという感覚が生まれる。
「愛」というとなんとも大げさな印象になってしまうのだが、自他を守りつつ自他を存在をそのまま包み込んで一体化する。
ヒーリングの本質
それこそが本来のヒーリングや癒やしと呼ばれるものであって、あるべき霊能者の姿のような気がする。
ヒーリングや癒やしというと、とかく仕事や家庭など現実社会に疲れた心や体をスッキリらくにしてくれるものというイメージが強い。
単純にパワースポットに行けば心身が爽快になって、明日からいいことありそう、というのも決して悪いことではない。
誰でも人間も幽霊も癒やせる
ただ、忘れてはならないのは見えない世界の力によって対象となる人間の心や体が癒やされるということは、そのまま人体の奥にぷよぷよ存在する霊性、霊、魂がヒーリングされていることと同意であって、すなわち一般には見えたり感じたりできない幽霊であったり生霊なり悪霊なりの「霊/魂」という根幹の部分そのものに愛が照射されているということである。
霊魂が癒やされるのは人間だろうが幽霊だろうが、その部分において変わりはない。
霊能力を身につけんと目指す者は畢竟、見えない霊や魂というとらえどころのないものであって、それに現実の世界や精神世界という区別は付けることがおかしいことで、ただ霊感で見えるもの、感じるものを、素直な気持ちでよくあって欲しいと願うだけである。
そうなると、結局霊感があろうが霊能者であろうが、そんなことよりも、ただ一つの対象がどの<時間>に存在しても深い魂の部分から幸せであれと念じるだけで、巡り巡って自分の存在を肯定することにつながるのだと信じたい。