ベランダの外壁が傷んできた。このままでは、やがてセメントごとはがれて、隣家の敷地に落ちてしまうかも知れない。長年の雨水が壁の中に染みこんで鉄骨を腐らせ、セメントととの膨らみが大きくなっていく。爆裂現象というらしい。
ベランダは10坪ほどの広さ。40年以上は経っている。業者の説明では、かつてビルに使っていたような本格的な鉄骨を使用しているようで、見た目は非常に頑丈そうだが、なにせ長年の雨風のダメージが積もってしまっている。とくに隣家側の雨や風がまともにさらされる箇所はかなり傷みが激しいという。
わが家は50坪ほどの敷地に、まず25坪ほどの木造築約50年の2階建てが建っている。次に、私たち孫が生まれるの機に、祖父母の暮らす離れを敷地の北半分、畑にしていた場所に建て増した。その同時期、40年ほど前、続けて玄関や浴室、廊下をリフォームするなどして今に至っている。
民家には少し大袈裟なほどの鉄骨セメント製のベランダ。10坪もの広さを必要としたのはなぜだったのか。
洗濯物を干すためだけなら、ここまでのものは必要なかったろう。ベランダを作ったのは亡き祖父だったのは間違いないのだが、気持ちを慮ってみると庭が欲しかったのではないかと思えてきた。
ベランダには隣家側にブロックでこしらえた花壇がある。長さ5m、幅1mほどの大きなもので、土がたっぷり詰まっている。今ではアロエの大きな株がまだ元気だ。
正直、ベランダのダメージが進んでいる原因は、この花壇が大きいようだ。ブロックと土の重さは何百キロだろうか、計り知れない。土の下の防水処理もとっくに傷んでしまって、水漏れしているのはベランダの下の損傷の様子を見てもわかる。このベランダがなかったら、本体の家への負荷も少なかったろうし、寿命ももっと伸びるだろう。
幼稚園の頃、祖父はこのベランダで鉢植えの菊を育てていた。当時、鑑賞用の菊を育てるのがブームだったようで、今も各地で開催される菊まつりはその名残だろう。今でも、わが家の軒下には、祖父がまとめ買いした素焼きの鉢がまとまって残っているし、祖父が取り寄せた大阪の国華園の通販カタログを私もペラペラ読んでいた記憶もある。
ベランダの菊の鉢植えは、10個や20個という数だった。小さい時、菊の鉢植えの列の間を走り回って遊んでいるのを覚えているし、そばで祖父が菊の手入れに精を出しているのを見た思い出も残っている。
わが家は地方都市の住宅地だ。この家が建つまでは周辺は田んぼだらけだったそうだが、今では市内でもとくに古い住宅が密集している地区で、道路は狭いまま、けれど幹線道路に囲まれているため抜け道の利用が多くクルマの往来は激しいという、典型的なドーナツ化現象のあおりを食らっている。
もともと畑だったところに祖父母は隠居部屋を建てた。そうすると土いじりする場所がなくなる。祖父母は山村で生まれ育って、本家の近くにはわが家のみかん山も残っていた。私も物心ついた頃から、週末になると祖父母に連れられてみかん山に行って、畑や林の中を走り回って遊んだり、山仕事の手伝いのまねごとをしたものだ。
祖父は貧しい農家の次男として生まれて、勉強が好きだったらしいが経済的な事業で進学は諦めて、結果、才覚で偉くなれるチャンスのある職業軍人を選んだ。残念ながら、入隊してほどなく中国大陸の戦地へと赴くこととなったのはさすがに予想外だったと本人も話していいた。ただ、戦前、貧乏な農家の次男や三男というのは長男が戸主となった実家に住みつづけるわけにもいかず、なかなかに進路が限られていたらしい。
中国各地を転戦して復員。焼け野原の日本に戻って、やるせなさを感じながら建設関係の小さな自営をしながら、今の家を建てて、孫も生まれて、ようやく老後の人生、余生をゆったりと過ごそうか、と考えた。もともと田舎生まれだから、日常的に土や緑がそばに欲しい。そんな祖父の思いが、目の前の朽ち始めたベランダだったのかもしれない。
さて、先立つものもなし、けれどこのままでは危険なベランダをせめて早く応急処置だけでもやらなければならない。祖父が亡くなって20年。実家をどうしていくか。このまま残していくのか、はたまた売ってしまったほうが手っ取り早いのか。
連綿と受け継がれてきた家族の思いというものが、これからの自分の身の処し方と密接につながっているのだなと改めて感じた。
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