浅間山荘事件は、昭和史のなかでも第一級の事件として今なお語り継がれています。
この事件で警察官2名と民間人1名が死亡、負傷者は27名という惨事でした。
事件とこれまでのわたし
1972(昭和47)年2月19日、連合赤軍の5人が軽井沢にあった河合楽器の保養寮「浅間山荘」を占拠。
管理人の妻を人質に、同年2月28日の事件解決までたてこもりました。
浅間山荘事件はテレビの特集番組のほか役所広司主演の映画「突入せよ!『あさま山荘』事件」を見ていたくらいで、詳しくはありません。
ただ、鉄球で建物を打ち壊す有名な中継シーンがテレビで流れるたびに、母から「当時、家のテレビで生中継をずっと見ていた」と聞かされていて気になっていた程度です。
中継映像や映画では、重機による鉄球作戦や犯人との銃撃戦を見ていても、距離感や現場の環境がうまくつかめずにいました。
ネット情報によると、「浅間山荘」の建物は現存しているものの、すでに河合楽器製作所から所有者が変わっているとのこと。
ただ、半世紀前の世紀の大事件の現場の建物が残っていることに驚きを禁じ得ませんでした。
南軽井沢に残る山荘
現場は軽井沢駅から南へ約7kmの別荘地にあります。
荒れた舗装の幅3mもなさそうな道路を進むと、テレビや映画で見覚えのある屋根が見えてきました。
建物の上側は狭い道路のみ
玄関から狭い道路を挟んで法面が続いていて、数メートル先のカーブが少し膨らんだところがあるものの、こんな至近距離で銃火器をともなう籠城戦があったかと思うと、身震いがします。
警察車両を停車しておくスペースの確保すら厳しい環境だったはずです。
しかも、警察当局は最終日の突入直前まで発砲が許可されず、山荘側から俯角で一方的に銃弾を浴びせられていた距離感。
現場で当時を想像しただけで胸が苦しくなりました。
建物の下側は切り立った崖が続く
切り立った崖に建つ浅間山荘。
浅間山荘の下側の道路までやって来ると、長い年月を経て建物が木々に覆われている様子が見えます。
下側の道路も狭く、道幅は2.5m程度しかありません。
すぐ真下は数十メートルとも見える深い崖が続いていて、転落すれば命の危険にさらされることは間違いなく、崖を登って突入するのも非常に困難だったことがわかります。
事件当時は周辺の木々が低く、7キロ離れた軽井沢駅からでも浅間山荘がよく見えた状況でした。
身を隠す物も限られる中、警察側が標的になりやすいのも事件の犠牲者を多く出した理由でしょう。
人気のない道路脇に慰霊碑が
山荘から数十メートル離れた道路のカーブ脇に、慰霊碑と供養のお地蔵様が祀ってありました。
しばらく手を合わせて、浅間山荘の事件現場跡を離れました。
▼山荘名について▼
現在、マスメディアでは「浅間山荘」ではなく「あさま山荘」と表記するケースが多いようです。
推測ですが、長野県小諸市の浅間山麓に「天狗温泉 浅間山荘」という、事件とは無関係の宿泊施設があって、混同を避けるためではないかと考えています。