神社巡りをしていると、「神様に呼ばれないとたどり着けない」と称される聖地の話をよく耳にする。
他力本願の言い訳にして
数は少ないものの、たいてい辺境の山奥にある神社で、そもそもアクセスが悪い。
公共交通機関も乏しい、自家用車でも「酷道」「険道」と呼ばれるような悪路をひたすら進まなければならないし、標高が高い場所ならば天候も変わりやすく濃霧に覆われれば途端に行き先がわからなくなってしまう。
しかし、スピリチュアルの世界では「神様に呼ばれなかった」と”前向き”に納得して諦める人たちも少なからずいて、もともとの下調べだったり、本人の方向感覚だったりといったごく当たり前の事実について語られることはなく、もっと言えば、努力や準備もそっちのけでそんな神社に行ってみようと思い立ってたどりつけないからといって、そんな都合の埋め合わせのため引っ張り出される神様も、いやはや、ただただ迷惑な話といっていいだろう。
紀伊山地のポツンと玉置神社
そんなある種の人たちにとっては大層な神社というのが紀伊半島の奥地にある。神社巡りをしている人なら、「玉置神社」というパワースポットを一度は聞いたことがあるだろう。
玉置神社に初めて参拝したのは、2008年だったろうか。パワースポットをまとめた雑誌に取り上げられていて、名前しか知らなかった「熊野」という聖地に心引かれるようになった。
世界遺産に指定されている熊野は、多角的な魅力を見せる地域で、熊野三山といえば熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社で構成されている。
古来、その三社を参拝するために整備されたのが今に残る熊野古道であって、平安絵巻から飛び出たような笠に着物姿のご婦人が石畳を歩いている光景をテレビや写真で目にしたことがあるだろう。
また、熊野を中心にもっと広い範囲で捉えると、桜の名所であり修験者の聖地として知られる吉野や、弘法大師空海の開山した高野山などがあって、熊野三山の奥宮で「奥熊野」とも呼ばれる玉置神社は、その心臓部に当たるのかもしれない。
やっとたどり着いた実感が味わえる場所
初めて訪れたときは、まだ麓にある十津川村には案内板もほとんどなく、つづら折りで舗装のよくない上り坂をひたすら車で向かった。
何度も、まだたどりつかないのか、と心配になりながら、ようやく駐車場に入ると、紀伊山地のなだらなか山々が目の前に広がっていて、早朝、朝日に輝く雲海も楽しめるほど高地にある。
駐車場から車が一台通れるほどの砂利の参道から、奥熊野の聖地へとゆっくりと入っていった。
たとえナビがあろうとも、慣れない山道は下調べをしておくのに限る。