富士山と私(2)宮下文書と徐福と秦氏と

富士山と私

神社巡りをしていると、早い段階で何かしら秦氏のことにつながるタイミングがある。

大学時代、嵐電沿線に住んでいて、徒歩圏内に三柱鳥居で知られる木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社、別名・蚕ノ社があった。

下宿のマンションにお風呂は付いていても、温泉好き、銭湯好きは子どもの頃からで京都で一人暮らしをしていても週に数回、平日の夕方や夜、休日の午後に銭湯で一風呂浴びる。

下宿の周辺に3軒銭湯を確保していて、蚕ノ社はそのうちの1軒にほど近かった。

銭湯の行き帰りによくお参りして「これが三柱鳥居か」と思いながら、しかし、やがて慣れてくるとそんなことすら思い浮かべることも少なくなって、お参りだけ済ませて帰ってくる。

たまに夜、どうしても秦氏のことが気になって、深夜徘徊さながら懐中電灯を片手に往復したこともあった。

蚕ノ社からしばらく嵐山方面に行くと広隆寺がある。

日本史の教科書で必ず登場する国宝・弥勒菩薩半跏思惟像の古刹だ。

広隆寺と秦河勝の関係はあまりに有名で日ユ同祖論でも頻繁に取り上げられるところだが、そうなると心は赤穂は坂越にあって俗にダビデ神社とも呼ばれる大避神社にまで飛んで行ってしまう。

秦氏を水平的視点な視点で眺めるとこのように、京都を中心に畿内から瀬戸内航路を渡りやがて中国大陸へと行き着くのであるが、垂直的視点で見つめていくと、突然富士山を中心として有史以前に栄華を極めたといわれる富士高天原王朝の幻影が心に浮かんでくる。

富士吉田の北東本宮小室浅間神社の宮司家に伝わった宮下文書は富士古文書とも呼ばれ、始皇帝が派遣した徐福が筆録したとされている。

オカルトや精神世界、もっと平易にいえば学研「ムー」的な世界ではよく知られた事実であるが、私自身はその真偽についてほとんど関心がない。

重要なことは、偽書として扱われる宮下文書に関連し登場する富士山とその東北麓に広がる富士吉田になぜこうした一部の人間を引き付けるトリガーが埋め込まれているかということだ。

秦氏という、一種近代まで続く神社の形態を整然と創造していった一族に含まれる徐福が富士山麓まで踏破したとすると非常に歴史の広がりを感じる興奮があり、しかし紀伊半島の南端と同様、なぜこのエリアに徐福が結びついたのかという疑問も生まれて、日本にとっての富士山とは何か、一方で私の中の富士山とはどういった存在か、といった富士山とその山麓という日本列島の中で特殊な空気を放つこの場所の本質を考えてみたくなる。

富士吉田を訪れるとき、天気が崩れることが多い。

もともと富士山周辺は気象的に変化しやすい場所なのだろうが、晴れていたかと思えばいきなり暗雲が立ちこめてにわか雨が降り出すなど、数回訪れたが富士吉田の持つ独特の陰のある雰囲気とつながるようで心から離れない。

初めて富士吉田を訪れたときもそうだった。

北口本宮冨士浅間神社にお参りしたいのがきっかけだったのだが、富士吉田市内に入って、適当に入った焼肉チェーン店で遅い昼食を取って、食べ終わるまでときどき日が差していたものの、神社の駐車場に車を停めて鬱蒼とした杉林に包まれる参道を歩いていたときはもう空が泣いていた。

晩秋の平日、雨も降り出し、参拝客はまばらで、境内を一周しながら質素な拝殿かと思いきや、裏側にまわると朱色で派手派手しくえびす様とだいこく様を祀る恵比須社が目にまぶしくて、不思議なコントラストを持った神社だった。

参拝後、雨に備えて幹線道路沿いで見つけたカー用品店でフロントガラスの撥水剤を買って塗ったり、すぐそばの地元のスーパーに入って平台に並ぶ土地ならではの食材に興味を持ったり、そんな時間を過ごしてたら初回の富士吉田は満喫できた気がして、嵐になった夕暮れ、御殿場方面へと車を走らせた。

神社巡りの旅で大事なことは、その回で終わるべきことが終わったらならば、そのまま静かにその土地を離れることである。

そうすると、そのうち、次にその土地を訪れる際にはどこに行けば良いのか、どのルートを辿れば良いのか、自然にイメージが浮かんでくるからだ。

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