中学校の時のクラスメイトから自宅に電話が掛かってきた。
人づてに担任だった恩師が卒業したことを知って、いつかサプライズでお疲れさま会をしたいのだという。
ある日、自宅の電話が鳴った
中学の恩師とは個人的に連絡を取っていた。
年に一度二度、ご飯を食べに行ったりしていたし、ここ半年ほどは結構なペースで夕食や日帰り温泉に連れて行ってもらっていた。
苦しくて当たり前な中学時代
中学時代が人生で一番苦しかったかも知れない。
周囲からすると平凡で何事もなかったかのように思うかも知れない。
内面はハードだったし、周りに合わせることのが辛かった。
もちろん個人差はあれ10代前半というのは疾風怒濤、心の絞られるシーンが多いのも事実だ。
学校やクラスに合わせてもはみ出てはいたみたいだが、ある部分では非常に過剰適応していたように思う。
文章を書き続けてきた背景
小学生の頃から文章を書いてはいたが、本格的に随筆や評論を書き出したのが中2のときだった。
教育のありかたについて深く考えていた時期で、知り合いの年配者に話を聞いたり、図書館で何冊も本を借りてきて学校を批判するものや教育の問題点を指摘する文章を書いた。
いまから思えば子供のお遊戯程度だったろうが、恩師はその文章を丁寧に読んでくれていた。
なにかのきっかけがあり、職員室で自作の文章が出回り、陰では賛否両論、あまり良く思わない教師もいたと聞いている。
当時から、対象を真っ当に批判して何かを変えたいと思うなら文章に起こし、文責を明らかにして意見を述べるのが理だと思っていたため、日常の自分との違いに苦い顔をする教師もいたのは致し方ないだろう。
恩師はそういった大人の事情によって書くことが制限されないように陰で守ってくれており、中学をなんとか乗り切ることのできた存在としてとても感謝している。
そういった経緯で卒業しても定期的に会いに行くのが自然な感情だったのである。
卒業したら、切る
基本的に学校は卒業したらそこですべて切ってしまうのが正しいと考えている。
切ってしまう、というのは学校や教師や同級生を否定して思い出を封印するという意味ではない。
感謝はした上で卒業後の人生に影響を与えないようにするということだ。
卒業した学校や卒業生とのつながりというのを変にこだわっていくのが、この社会の底流に流れる共有概念のような気がしてならない。
とくに小学校や中学校はゲマインシャフトという用語を持ち出すまでもなく自然発生的であり、偶発的に出会った集団である。
メンバーのカラーもあまりに多彩で幅広く、集団生活を良いイメージでもって回顧する人間と、思い出したくすらない時代だったと嫌悪する人間と両極端であるのも、10代前半、半強制的なかたちで集団として囲われるためであろう。
懐かしい、という感情と、行って良かった、という感想とは必ずしも結びつかない。
同窓会もたまに開かれているようだが、行かないことにしている。
参加すれば懐かしくて楽しいのは想像に難くない。
その場のカタルシスは得られるだろう。
しかし、終わってからどっと疲れてしまうことが明確に想像できるのだ。
高校もどうだろうか、むろん大学までいけば社会への入り口として所属していた学校に何かしらのつながりや影響を背中に抱いているというのは仕方がないかもしれない。
得も言われぬ疲れ
数年前だったか、大学の同窓会県支部が主催の酒の席に出かけてみた。
日頃、一人で働いていて新しい人と出会うチャンスも少なく、自分をちょっと広げるきっかけともなればと思ってのことだった。
楽しいのは楽しいのである。
同じ大学の同窓生と言うだけで年齢に関係なく不思議な連帯感がある。
キャンパスの話、学生時代の話なども興味深い。
ただ、話題の大半はそれぞれの仕事の話であったり、学閥めいたものがあって地元の大学出身でないとなかなか厳しいものがあるから連携していこう、のような方向になっていく。
在籍していた時期は違えど大学の先輩・後輩、学生時代への懐かしさもあるし、楽しくないわけではない。
しかしそれ以上に、翌日からの精魂吸われたような疲れがしばらく続いてしまったのには、ほとほと困ってしまった。
この疲れは一体どこから来るのか。
懐かしいというのは、あの頃のすべてを意識のうえにせよ無意識にせよ喚起させる感情である。
二十歳前後の気位だけが高くて世間が見えていない時代に雑巾を絞られたように受けたダメージも含めて懐かしく思い出してしまうのである。
それはイメージだけの問題ではない。
全身の皮膚感覚、細胞の隅々までがどす黒い青春という低気圧に苛まれるのである。
私の人間関係観
恩師に会いたいのなら会えばいい。
同窓生と飲み明かしたいのなら連絡を取ればいい。
枠組みを決めた同窓会のようなかたちで会う必要はないし、会わない方がいまを生きている日常に過去が侵食されることもない。
同窓会に行くのも世間体を気にして、という考えもあるだろう。
高いお金を払ってしかたないと腹では思いながら参加して納得のいかない顔をして帰ってくる。
そんなことならデパ地下で高いステーキ肉でも買って家で焼きワインでも開けた方が健康的ではないか。
少なくとも翌朝に残るのは二日酔いの可能性だけなのだから。
相容れない考えのなかで
電話を掛けてきた同窓生には、会いたいならまずは個別に会ったほうがいいし、会いたいときに会わないとあとで後悔するときだってある。
相手が若かろうとそうでなかろうと、近いうち会いたいと思っていたら訃報を聞くことだって世の中にはよくある話だから、と伝えた。
それに、そんな人間に限って、何年も会っていないのに葬式で泣くという後悔を繰り返すものなのだ。
人生で出会う人間を選ぶことはできない。
しかし、限られた時間と守るべき自分の日常空間へ浸食されないため付き合っていく関係を選ぶことはできる。
決して薄情な話をしているつもりはない。
ただ、懐かしさをベースにやってくる仮面にはときに毒が潜んでいると言いたいだけだ。
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