30歳のとき、人生を変えるような失恋をして、それで思春期そして青年期からの続きが終わって、人生の後半への準備が始まった感覚がしました。
そのとき、職業でも社会的立場でも金持ちでも名誉でも、なんでもいいから「何者かになりたい」と心のどこかであがいている自分自身を解決することができずだらだらと過ごしていた時のこと。
大阪に旅行中、居酒屋で隣合わせの方がいわゆる見えない世界の関係のお仕事をしていて、お互いに最初から気づいてあれこれ人生についてなどなど話していたわけですが、そのときに言われた一言。
「『何者かになりたい』ではなく、本当は『何者でもない』自分に気づいているはず。そこをクリアできたら、本当に自分らしく生きられる」と。
その場で元恋人にメールをしてケリをつけさせられたり、お酒の飲み方をマンツーマンで教わったり、荒療治もいいところでしたが、それを受け入れた自分もその時点で新しいステージにシフトしていきたかったのは確かでした。
極端は話、日常の意識であれば大切であると感じているモノ・コトはすべて幻想で、今この場で捨ててしまっても人生の本質に何ら影響はしないこと。
この感覚が青年期を過ぎたあたりから、非常に重要な鍵を握っていると感じます。
いつでも連絡が取れるスマートフォンを目の前の川に捨ててみるーー。
なんて喩えも、実際にやる、やらないは別として、本当に捨ててしまったとしても、いや、どうにでもなるだろうと。
「何者かになりたい」自分というのは、世の中から見ればごく当たり前でわかりやすい価値観です。
しかし、「何者でも無い」と気づいてしまうことは、自分も周囲の人たちも本質的に変容させてしまう可能性を持っているだけに、危険な香りを孕んでいるのかもしれません。