古代の出雲の勢力圏を考える手立てとして出雲市にある「王家の谷」と呼ばれる古墳を見てみよう。
出雲に見える吉備のしおり
ここから出土される埋葬品には、北陸産の玉が含まれている。
丹後(京都府の日本海側、天橋立周辺)から北陸にかけての交流があった証拠であり、そもそも、出雲風土記には古代出雲が越の国(いまの北陸地方)の八口という豪族と戦ったと記されており、これがヤマタノオロチ伝説につながったとする説もある。
それよりさらに興味深いのは、吉備地方しか出土されていない特殊土器が出雲の古墳から発見されていることだ。
つまり出雲と吉備という、古代中国地方の二大勢力は、対立しながらも交流を深めていた様子が伺えるのである。
宗像大社は「出雲」か
いよいよ出雲の最西端はどのあたりだったかという問題だが、まずは福岡県にある宗像大社を中心としていた宗像である。
アマテラスがスサノオを追放したものの二人が一触即発の状態になったとき、スサノオが誤解を解くために誓約することを申し出た。
その際、スサノオが十拳剣に息を吹きかけて生まれた神々のうちの三女神がいわゆる田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)である。
さらに、古事記によれば、オオクニノヌシはタキリビメ(田心姫神)と結婚し、アヂスキタカヒコネという鴨(賀茂)氏の祖神を生んだとされている。
宗像族は出雲の支族
古代史研究においても宗像族は出雲の支族であったということであり、なによりも 『宗像大菩薩御縁起』 には「人皇第七代 孝霊天皇四年に出雲国斐川上から築紫の宗像に御遷行」されたと記述があり密接な関係にあったと思われる。
現場で感じる宗像の謎
先日、福岡県宗像市の宗像大社に訪れた。
宗像三女神は武神?
その際、疑問に感じたうちの一点目は、日本書紀にアマテラスが宗像三女神に向かって、「汝三神、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祭かれよ」(九州北部の海域に降臨して、天孫の統治をたすけなさい)と命じていることである。
朝鮮半島から中国を睨んだヤマト朝廷が女性の神々を戦いの神として据えているのがどうもすっきりしない。
なぜ男神で荒ぶる神にしなかったのか。
謎の古墳の正体とは
さらに、宗像大社の最重要ポイントである高宮祭場。
その周辺、わかりづらい場所に古墳らしき丘があって、頂上には小さな祠が祀られている。
私が参詣したとき、宗像大社の本殿や高宮祭場よりもエネルギーが強くて、こちらが宗像の本来の神だったのではないかと感じた。
どの地方であっても地方豪族の歴史はすなわちヤマトがいかに征服していったかの歴史につながるので当然といえば当然だが、いよいよ、九州の古層のエネルギーも目覚め始めた感がある。
この古墳らしき丘の具体的な場所をお伝えするのはまだ早いようだが、そのうち九州各地の聖地とつながっていけばそれぞれのラインがはっきりしてくるのではないかと楽しみである。