常識として正しい選択と、生き方として正しい選択

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2年前に同い年の親友が死んでから感じるのは、私の周りには常識のラインでしか答えてくれない人たちしかいなくなった、ということだった。複数のマイノリティとして駆け抜けた親友は、小さな頃から常識だったり、世間体だったりといったお仕着せのものに泣かされてきた。マジョリティによる圧迫の末にマイノリティになったといえる側面もあったのかもしれない。

何か心の中でもやもやしたとき、お互いに会話を通して慰め合ったり、励まし合ったりしてきたが、その視点には必ず常識からいったん解き放たれた場所から見つめる安心感があった。そのため、どんなに常識とは外れた感覚感情や思考を披露し合っても、まずは受け止めた上で必ず「なるほど」と感じる答えが返ってきたものだ。

私たちは多かれ少なかれ、生きていく上で常識の仮面をかぶっている。その仮面が生の顔にひっついてまったく外れなくなっている人もいれば、いつでも着け外しできることをわかった上で浮き世を泳いでいる、といった人もいて、さて私たちはどちらに属するのであろうか。世間を斜めから見ていて、というより見ざるを得なかったし、見るように強いられた親友の視点には必ず常識からいったん解き放たれた場所から見つめるという、こちらをほっとさせる安心感があった。

たまたま最近、ここ数年来、お金の問題で行動に移せないこと、があった。自分の生き方を高めていく上で行動したいものの、糊口を凌ぐだけで将来のための投資まで回らなかったのだ。しかし、ひょんなきっかけで、そのお金を出してもいいという話が舞い込んだ。ビジネスに絡んでの話ではあったが、有り難すぎる内容で飛びつきたかったものの、自分自身で整えて実行する方法ではなかったこと、そして自分のタイミングや準備と今回のチャンスとに食い違いがあったこと、そのあたりの理由で辞退した。

こういうとき、あの親友だったらなんというだろう。常識的に判断すれば「ずっとやりかったことをやれるチャンスなんだから、乗っかかればいいじゃない」という話になるだろう。自分の懐を痛めることなく、簡単にしばらく抱え続けていた目標を達成できるわけだから。しかし、そこには常識による基準はあっても、自分自身の価値観や美意識、生き方といった日常で忘れがちな目に見えないものが入り込む余地はない。

私たちは無数の刹那ごとに選択を迫られている。一寸先は闇ではあるが、目の前の瞬間的な選択によって未来がぱっと明るく開けることもある、というのが人生の面白味だ。ただ、常日頃、常識で判断していくだけでは、選択する数自体が少なく、おおざっぱな道筋でしか歩むことができない。そして、選択と選択の感覚が広いということは、それだけ判断ミスによる修正がしづらいということでもある。

先年、ある友人から身内に関する真剣な悩み相談を受けた。日頃、自分に厳しく、滅多に本音を表に出す人ではなかったので内心新鮮だったと共に、人として一対一で対峙するとき、まっすぐ答えようと思った。しかし、相談を聞いているそばから、自分自身の本音でまっとうに答えた場合、その友人はともかく、周囲を取り囲む家族は私のことをよく取らないだろうとも直感した。余計なことを言って、だったり、家族の話に他人がわかったような言い方をして、だったり、そんな風に曲解されるだろうと瞬間的に不安がよぎったからだ。結局、それから友人自身はともかく、たまに顔を合わせることがあったその家族とは挨拶や会釈すらされなくなったという笑えるオチとなった。巡り巡ってそんな経緯が生まれた、という話も何となく耳に入った。

まっすぐ友人の相談に答えたことそのものに後悔はまったくない。ただ、日頃お世話をしている、またはお世話をされている関係である身内の友人たる他者に対して、たとえ腹でどう思っていようと、たまにすれ違う程度の機会に「こんにちは」や「いつもお世話になっています」くらいの社交辞令はできないのだろうかという点のみ断固として、人として心から軽蔑するところである。

一つひとつの分かれ目に出くわしたとき、選択肢そのものはそれほど多くはない。むしろ限られている。選択肢が多くて選べないというのは、まだ本気で判断できる準備が整っていないとも言えるだろう。ただ、選択していく回数そのものは、本人の生き方だったり、人生や時の流れに対する感度の高さだったりに由来するのではないだろうか。

「あのときなぜあんな選択をしてしまったのだろう」ということが口癖のように多い人は、もしかすると自分の意志や思いではなく常識で何となく判断しているだけなのかもしれないし、大きな選択ほど重要で小さな選択ほどあまり重要ではないと思いこんでいるのかもしれない。

私たちはあくまで、目の前で移ろいゆく状況に応じて、安易な選択をしてはならない。選択するべきことがあって初めて、状況の変化に応じるという確固とした基準がない限り、いつまで経っても複数の選択肢に迷い、戸惑い、躊躇ってはおろおろするばかりで、生き方に叶った選び方はできないだろうし、それよりも選択と選択との間隔をいかに狭めることができるか、その数をセンシティブに増やせることができるか、そこに懸かっているように思う。

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