植木等と伊勢の廃寺

伊勢路2025初夏

クレイジーキャッツとして活躍した昭和の大スター、コメディアンの植木等を初めて知ったのは、ドラマ「名古屋嫁入り物語」(東海テレビ、1989年1月)だった。

「名古屋嫁入り物語」で植木等を知る

男と女のミステリー 名古屋嫁入り物語 | 放送ライブラリー公式ページ

派手で知られる名古屋の結婚事情をユーモアたっぷりに描いた作品で、後にシリーズ化されるなど人気を博した。

名古屋の夫婦を植木等と山田昌が丁々発止の名古屋弁で演じ、小西博之演じる息子と東京出身のかとうかずことの結婚に立ちはだかる、というのが主な筋書きだった。名古屋弁を聞いたのもこのドラマが最初だったように思う。

嫁入り道具のトラックを一度もバックさせることなく到着させなければならないため、通行の邪魔になる車があれば、ご祝儀を渡して移動させるといったエピソードが、子ども心に一番記憶に残っている。

放映当時、まだ家族が皆お茶の間を囲んで同じテレビ番組を見るという昭和の終わりの時代であり、祖父母や親から、戦後コメディアンとして大活躍した植木等について聞かされた。このドラマの影響で、「植木等=名古屋」というイメージが私の中でしっかりと植え付けられた。

混在する植木等の出身地

植木等の出身地について、愛知県名古屋市とする情報と三重県出身とする情報が混在している。てっきり名古屋市出身とばかり思い込んでいたため、些か混乱した。

調べていくと、出生地は名古屋市だが、僧侶だった父の関係で幼少期を三重県の数カ所の寺で暮らしていたことが影響しているようだ。実際、一般的な情報では名古屋市出身だが、事務所のワタナベエンターテインメントの公式ホームページでは三重県出身となっている。

植木等 | ワタナベエンターテインメント
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植木等は父が名古屋で僧侶の修行をしていた期間に誕生した。両親ともに、現在は伊勢市に編入された地域が実家であり、3歳のとき、現在の伊勢市にある寺に移住したのは、市内に母親の実家である真宗大谷派西光寺があったためである。その後、一家は現在の度会郡大台町(旧宮川村粟谷)の山深い常念寺(聞得寺)に引っ越した。

この辺りの情報はWikipediaにまとまっているが、特に幼少期については晩年の植木等が父の植木徹誠(てつじょう。本名・徹之助)についてまとめた著作に詳しい。

なぜ、気になる、植木等

私はただの植木等ファンに過ぎない。ファンとも言えないレベルかもしれない。クレイジーキャッツの時代は知らないし、映画もまだ観ていない。これまでにテレビドラマやステージの映像を数本見て、植木等のアルバム「スーダラ伝説」をたまに聞くレベルだ。

それでもずっと心のどこかで植木等への関心が薄れないのは、付き人だった小松政夫をはじめとする周囲が評する物静かで生真面目だったという素顔であり、反戦運動や差別解消といった社会活動に身を投じた父・徹誠への興味であり、そんな彼と植木等との親子関係にある。

瀧原宮から大台町へ

瀧原宮

伊勢市から40キロ離れた度会郡大紀町に瀧原宮がある。内宮の別宮で、倭姫命が天照大神の鎮座地探しで巡った元伊勢の一つと言われている。雰囲気としては、内宮をぎゅっとコンパクトに凝縮したようで、朝の参道は木漏れ日が美しい。

瀧原宮にはこれまで何度も参拝しているが、植木等について調べていた際、ちょうど少年時代に過ごした寺の跡が近いと知っていつか訪ねたいと思っていた。

瀧原宮の最寄りインターより

瀧原宮

瀧原宮の最寄りである大宮大台インターチェンジから宮川を上流へと遡ること約13キロ。基本的に片側1車線だが、一部道路の拡幅工事がされていない箇所もあり、スピードは思うように出せない。朝5時過ぎの日の出にあわせて移動したため、対向車もほとんどなく、運転はしやすかった。

県道31号線から国道422号線を北上していく。国道とはいっても道路の両脇から木々が生い茂り、見通しは暗い。最近、土砂災害があったようで、信号機ありの片側交互通行となっていた。

大台町粟谷地区へ

大台町粟谷

分岐から5分ほどで開けた景色となり、天ヶ瀬から粟谷地区へと入る。ちょうど地名の看板を左にカーブせず、旧道へとまっすぐ入って道なりに進むと、右手に「聞得寺跡」の案内板が見えた。

聞徳寺跡

常念寺跡(聞徳寺跡)〈植木等寓居跡〉

常念寺跡は、道路脇の案内板から50メートルほど山に入った場所にあった。

ちなみに、常念寺跡を地元では聞得寺跡とも呼ばれている。本来「聞得山常念寺」が正式名称だったところ、時代と共に山号と寺号が混同されていったのだろう。現地の案内板も「得」が「徳」になっているなど、齟齬が見られる。

薄暗い山道を数十秒上がった先に、明るい空間が見えた。広さは小学校のプール程だろうか、想像していたより狭い空間だった。最近の雨のせいもあるが、山の中で湿気に覆われており、林の中、敷地だったところは空が見えているものの、じとじとと暮らしづらい場所だったに違いない。洗濯物など、乾きづらかったのではないだろうか。マムシやクモ、ムカデといった害虫の類いにも悩まされていただろう。

植木等は父親の伝記である「夢を食いつづけた男 ──おやじ徹誠一代記」を執筆するにあたり、1983年(昭和58年)にこの地を再訪している。1930年(昭和5年)の時点で「まるで妖怪映画のセットのようだった」という寺がいつ倒壊してもおかしくない廃墟として残されており、建物前で植木等が案内する写真が著作に掲載されていた。

現在はすでに建物もなく、敷地の中央には植木徹誠が建立した石塔が残るだけである。

寺の由緒

ここで常念寺の歴史を振り返っておこう。

現地にある『大台町ふるさと案内人の会』の案内板によると、

創立年代は不明ですが、幕末一八六〇年代、粟谷で医者を営んでいた笹ヶ瀬氏によって再建され、聞徳寺とも言われています。

とある。

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一方、多気郡の旧宮川村が発行した「宮川村史」(1994年)によれば、

創立年代は不明であるが、文久年間(一八六一ー一八六三)粟谷にて医院を開業していた医師、笹ヶ瀬浄諦居士によって建立されたもの。

とあった。

石塔について

石塔は、昭和9年(1934年)4月に、第十一世植木徹誠が檀家の寄附を募って建立された。表の「浄念法師」とは、寺の第一世の住職であることも側面に刻まれている。

裏面に、はっきりと植木徹誠の名が確認できるが、「宮川村史」によると、刻字は徹誠の手によるものだという。

植木親子の関係性から見えるもの

植木徹誠は、戦前は社会主義、戦後は共産党に入党し社会活動を続けている。戦中にあって、檀家が出征する際は、「戦争は殺人だからできるだけ殺さぬようにし、生きて帰って来るように」という主旨を伝えて送り出したという。

この常念寺の住職だったとき、部落解放運動の先駆けとして三顧の礼をもって現在の伊勢市内の寺に移り、1927年(昭和2年)には全国水平社の『朝熊(あさま)闘争』を指導する。

思想信条はともかく、自らの信念に従い、文字通り身命を賭して行動する生き様は、今の私たちからするとまったく別の世界の人間に見えてしまうし、私が子どもの頃、明治や大正生まれの人たちの中には、徹誠ほどではないにせよ、どこか腹が据わり、信念を貫く覚悟のあった人物がちらほらいたように記憶している。

植木等は、父が治安維持法で4年弱投獄されるなか、差し入れを届けたり、息子として父親に代わり檀家を回って法事を行ったりしながら少年時代を過ごした。

こうした徹誠の息子として、植木等は計り知れない影響を受けたであろう。とはいえ、映画「無責任」シリーズ「スーダラ節」をはじめとするヒット曲を高笑いで歌いきる植木等の姿に、そんな親子関係の何かを感じ取ろうとして、そんな試みをすればするほど煙に巻かれてしまうのも確かである。

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