こんにちは!
相変わらず11月に入ってもスッキリしない天気ですが、お元気ですか?
さてさて、最近、文字や動画で伝えられることの素晴らしさとともにその表現の限界っていうのを、ついつい考えてしまいます。
インターネットの魔法というか麻薬の部分のこと、かもしれません。
そんなのは当たり前って思ってしまうかも知れないことではあります。
学科教習と技能教習
たとえば、車の運転。自動車学校では学科で教本と映像教材の二本立てでみっちり運転の仕方を学びます。でも、学科だけしこたま頭にたたき込んでも、よほど運転感覚のベースがある人以外はいきなり技能教習でハンドルを握っても思うように運転できるまでにはかなり時間がかかるはずです。
もしかすると、インターネットのキュレーションサイトや各種サイトでライフハックをはじめ多彩な情報を得るとき、学科教習の知識で技能教習もやり終えている感を得てしまっているんじゃないかなと。そういうふと立ち止まれば当然のベースを忘れてしまっているのではないかと感じるようになりました。
「頭が良い」より「体が良い」に憧れて
こういうあれこれ考えているのは、以前から整体や古武術関連の本を読むのが好きで、最近また読み返しているのがきっかけです。
頭が良い人ってなんだろうって思ったとき、やっぱり体の使い方、身のこなしが美しいことって、頭が良いかどうかを判断する自分の美的感覚に大きな影響を与えてるのかなと思い当たります。
小さい頃からみかん山で見ていた、畑仕事をする祖父母の体の使い方、無駄のない端正な姿。
また祖父母はずっと建築関係の仕事をしていたので、幼稚園や小学校の低学年ぐらいまではよく木造家屋の建築現場に連れて行ってもらっていました。いまとなっては子どもをそんな場所に出入りさせるのはアウトでしょうが、当時はまだのどかな時代。幼稚園児の私でも骨組みだけの二階にハシゴで登ったり、仕事の手伝いのまねごとをさせてもらえたりしたのです。
そんな幼い頃に見た光景を紐解くと、現場の大工さんや左官さんの仕事の体の使い方ってきれいだったなぁ、美しかったなぁ、と思い出しました。無駄がなく力が程よく抜けたその働く姿は「頭が良い」よりもはるかに「体が良い」ことの素晴らしさのような価値観を植え付けてくれた感じがします。
体の感覚をいかに伝えられるのか
合理性や頭脳や思考が優先されつづける世の中で、こうした子どもの頃に見た肉体からにじみ出る素晴らしさというのをいまもって感覚としてあるのは嬉しいことです。
車の運転のコツだとか、初めて補助輪なしの自転車にチャレンジする子どもたちにどう言葉で何を伝えられるのか、料理のポイントなど、あまりにも言語化し得ないものに囲まれていると再認識しています。
そして、最近は体の感覚だったり感性の記憶だったり、そういうものに興味が向いていて、はてさてそれをどうかたちにしていけばいいのかと考えているところです。
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