暑い夏を過ぎて秋も深まってくると、ついつい過去のことをいろいろ思い出して思い出を整理するような時期が訪れます。
子供の頃から身近だったお遍路
それは決して後ろ向きなものではなく、子供の時分やこれまで流れを再定義するような振り返りなのですが、秋のお彼岸を過ぎたあたりから、ふと立ち止まって将来を見据え直すタイミングにぴったりなのかもしれません。
秋口に入ってちょっとずつ遍路巡りをしていると、自分とお寺との関係がどうやって築かれてきたのかを考えます。
先ほど思い出したことに、小学校1年生の時に石手寺の裏山にあるミニ四国八十八カ所を回ったことがありました。
新仏の供養にミニ四国参り
松山には古くから、新仏さんが出ると身内で石手寺のお山四国をするという風習が残っています。
ちょうどその年に曾祖母が亡くなり、祖母とその姉妹に連れられて私も半日がかりで山道を歩き、道すがらのお地蔵さんに一枚ずつ一円玉を置いていきました。
麓に近づくと冬場特有の嵐になって、雨を避けるように茶屋に入りみんなで鍋焼きうどんをすすったりおやきという石手寺名物の「やきもち」をほおばりました。
家に染みつく信仰の向く先
我が家は決して信仰が厚いとか、そういう家ではなかったと思います。
昔の家庭であればごく普通の感覚で神棚をまつったり、お寺にお参りしたりということに過ぎなかったでしょう。
しかし、祖父母と同居していたことで決定的に神仏が遠くて近くにいるような実感を肌で覚えていたように思います。
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