誕生日は厄落とし。死ぬこと、そして、生きること

スピ・ライティング

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もうすぐ運営人の誕生日です。

誕生日の手前半月ほどというのは、毎年「よくない」ことが起こってきました。

・事故に遭う

・寝ぼけてトイレで転倒して骨折する

・ケガをする

などなど、10代のころからとくに誕生月が近づくと厄落としかというくらいよくあるので、毎年気をつけて生活するようにしています。

梅雨のシーズン、全体的に体調を崩す人も多いこと、6月30日の夏越の大祓のタイミングであること、など、時期的に他の季節とは異なる時間のなかで過ごしているからかも知れません。

魂の再生を毎年追体験していくこと

「出産は女性にとって大きな厄落とし」

といわれることがあります。

子どもを産んでから体質が変わって丈夫になった、精神的に強くなった、という話はときどき耳にするので、さほど珍しいことではないのでしょう。

一方で、「産後の肥立ちが悪い」といってずっと体調を崩してしまう経産婦さんもいます。

見えない世界から考えてみると、出産というのは母親の女性にとっても我が子とともにこの世に『再生』するのであって、出産を境に人生が明確に、新たなステージに移り変わるようです。

ーー 男性に比べて妊娠から出産という一連の流れによって、肉の再生が行われるということ。すなわち、一つの魂が分化して、しかもそれぞれ孵化するという、不思議な二筋の流れがそこから立ち上がる、人生の中でも奇跡的な”Divine Time”(聖なる時)を迎える。ーー

つまり、子供にとっては母親が存命であろうとなかろうと、誕生日のごとにこの世に生まれ直す体験を否が応でも思い出さなければならず、母親にとっても我が子の出産を魂の記憶として刻み直すという、わりとエネルギー的にはアップダウンの激しい時期でもあります。

「見えない世界」は「見える世界」に統合されることが正しい

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一時期、あれほど出かけていた神社巡りも、ここのところめっかり行く機会が減りました。

けっして神社巡りに興味がなくなったというわけではなくて、それまで目の前にずっとぶら下がっていたものが、ふと気づくと自分の後方にその位置が移動していた、というのが正しいと感じています。

消化/昇華したのでもないものの、この世の、現実の世界でしっかり生きて行こうと決めたとき、同じタイミングで神社巡りに象徴される私の中の「見えない世界」というものが、リアルで統合されていったということなのでしょう。

一時期には、年の3分の1神社巡りに当てて全国をさまよっていました。

魂の記憶や、とくに血脈でご縁の強い神社やスポットを中心に選んでいったので、1年に5度ずつ伊勢と出雲に参拝するといったことから、有名な神社ではなく土地にひかれて里山を歩いたり、名もない神社を何度も訪ねたりと、ある意味偏った神社巡りをしてきました。

すると、島根の須佐神社の集落にある、地元からも忘れ去られた寺院跡が気になる。死ぬまでに一度でいいからその場所を見てみたい。でも、道もなく、勾配がキツく、クマも出る。危険だから地元の人にも止められる。というような、「青い鳥」のような場所が見つかってしまう。

本格的に登山の準備をしたり、お金をかけさえすれば、そこに本気で行こうとすると、どうとでもなるものかもしれません。

しかし、そこでそのままにしておきたい思い、男性性であるアニムスが女性性であるアニマを永遠に追い求めるような、不思議な切なさがずっと消えることなく、でも、その火を消したくはないというアンビバレントで甘酸っぱい感覚を引きずるからこそ、こうして現実の世界に生きていられるような気もしています。

また一つ、私は死ぬ

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誕生、それは死そのもの。

毎年、誕生日を迎える度、この期間は、お盆やお彼岸のときにあちらの世界とつながるような感覚が戻ってきます。

ふと気づくと普段は忘れている、いや、忘れようとしている、あちらの世界の扉やその位置があまりにすぐそば、背中に迫ってきていてハッとすることもしばしばです。

広い日本、地域によっては通夜や葬儀を祝い事として扱う風習が残るといいます。

誕生日を祝うということ。

それは、死から再生した1人の人間が、改めて死へ戻ろうとする、この「この世の」当たり前のプロセスを、非日常的な感覚で見つめ直すべきだと教えてくれるようです。

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