未来に飛躍する直前に、過去が、圧縮された空気のようになって背中に覆い被さるときがある。
そんなときは、ただ岩にしがみついて風が収まるのを待つしかない。
過去はどこまで意識できるのか
過去は、意識している思い出のほか、先祖や家系が抱える記憶もあれば、昔生きていたときの絡まりあるようなイメージも含まれるかもしれない。
意識できる過去は、一体どこまでなのか。過去の範囲を広げることは、ただ時間が流れていく現代では不必要だと感じることもあるが、背中に担う過去を振り落とせないのならば、仕方がないことである。
曾祖父という大きな存在
自分の存在の原点を周期的に思うとき、繰り返し浮かび上がる家族の記憶が曾祖父の話で、14,5歳で家族全員を流行病で失って、皆の位牌を背負って四国遍路の旅に出た、ということだ。天涯孤独になった曾祖父。
先の大戦でも、たった一人その人が生き残ったから、今の父母があり自分がある、と言う人も多いはずだ。それをいつも思う。
祖父が若い時分、その当時の話を曾祖父に聞いてみたことがあるらしい。
子供として、父親の体験を知っておきたい、と言う素朴な関心からだった。
話し出そうとすると、曾祖父は声を詰まらせて、うつむいてしまい、ぽろぽろと涙を流してしまって、悪いことを聞いてしまったなと後悔したらしい。
それ以降、聞く機会もないまま曾祖父は亡くなってしまった。
家族は語りたがらないし、顔を見せたがらない。
辛い過去であればあるほど、子供や孫には話そうとしないし、こちらも話を聞き出す手だてがない。
昔の話を聞きたがる子ども
子供の頃から、祖父に戦争の時の話をねだるように聞いていたが、おもしろいエピソードは直接聞いても、それ以上の体験を聞くということはほぼ皆無だった。
よく祖父は、寝言で大きな声を上げていて祖母にからかわれていたが、毎晩のように戦争の切迫した記憶が夢に出てくるようだった。
高校生ぐらいだったか、真正面から戦争について話を聞こうとしたことがあったが、祖父は苦笑しながら、すべて自分が書いた戦記に残してあるから、大きくなったら読め、というばかりだった。
書くということを通して文章にすべての事実や記憶、そして思いをそこに封じ込めれば、人はもう語ることを欲しなくなる。
祖父は辛い体験こそ、そんなものだと言いたげだった。
家族が受け継ぐ記憶
昭和30年代の終わり、母親は叔父夫婦と松山で暮らしていたが、ある日、曾祖父が田舎からバスで訪ねてきたことがあったらしい。
当時の乗合のボンネットバスで一時間以上も揺られながら曾祖父は一人、松山までやってきた。羽をはらはらとまき散らす両足を縛った鶏を片手で提げてきた、と母は記憶している。
当時の借家の裏の小川で祖母がその鶏を締めて羽をむしり昼ご飯の鍋にしてみんなで囲んだ。寡黙な曾祖父はその日にまたバスで帰っていったという。
初めて知った祖母の旧姓
家族の記憶は、祖父母や父母にとっては当たり前すぎて、語る必要もないものかもしれない。
私自身、ここ数年のキーワードの一つが「木山」という珍しい姓だったのだが、つい最近、父から祖母の旧姓が同じ名字だと聞くまで知らなかった。
「あれ? お前、知らんかったんか?」
父からするとそれぐらい当たり前のことなのだが、私にとってはその後、過去の圧縮された空気をまた一つ軽やかにしてくれる家族の記憶だった。
次の世代に伝えるべきもの
家族の記憶は残すべきなのかどうか。伝えたくても漏れ出てしまう記憶もあるだろう。
そんななか、すべてを次代に伝えることは無理だろうが、このように未来と過去が一緒くたになって過去を覆い被してしまおうとする時代だからこそ、逼迫した状況になって聞いておけばよかった、と悔やむときもあるかもしれない。
圧縮された空気は、次に伝える分量が何時の世代も決まっているのかもしれず、自分の一生の間で薄められた家族の過去はまた自身の記憶という過去を塗り足しながら、次の家族に伝えるのだろう。
解き放たれるのを待つ、圧縮された過去。
きっと、近く、月食があるせいだろう。
そう自分に言い聞かせてみる。
photo by photo AC
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