道後温泉のまちに生まれた伊予猿として(3)道後独立の幻

道後は松山ではなかった

逗子町・・・横須賀市からの苦難の独立

逗子

逗子ヶ浜の夕日

平成の大合併を経てもなお、地図を見ると小さな市町村がそのまま残されている箇所が見える。

神奈川県逗子市もその一例で、三浦半島の付け根に位置する小さなまちは横浜市や鎌倉市、横須賀市といった大都市に囲まれている。

かつて弘法大師空海が市内の延命寺に逗子を建立したことが地名の由来という逗子市は、かつて逗子町といった。

明治17年(1884年)に成立した逗子村は、大正13年(1924年)に三浦郡逗子町へと町制施行された。

ところが、帝国海軍の重要な軍港だった横須賀に隣接していた影響で、昭和18年(1943年)に浦賀町他5町村とともに横須賀市に編入されている。

いわゆる支那事変(日中戦争)以降、戦時色の濃くなる日本では、戦時合併(もしくは軍需合併)が盛んに実施された。

数多くの市町村が存在するままでは戦時体制として指揮命令系統に遅滞が生じる恐れや軍需生産の効率化もあり、大きな市町を生み出すことで国家としての戦争遂行を促進させようとしたと思われる。

逗子町のケースも横須賀港を中心とする大軍都構想実現のため、海軍からの要請を受けて強制的に合併をさせられたという。

戦時合併と松山

戦時合併は敗戦後に分離独立を希望する市町村については、昭和23年改正地方自治法附則第2条によって2年以内という限定で住民投票によって採決することが定められた。

一度始まってしまうとなかなか元に戻せないのが日本人のメンタリティなのかどうかはさておき、多くの戦時合併はそのままの状態で平成の大合併を迎えることになった。

しかし、逗子町のケースは横須賀市から紆余曲折を経て分離独立を果たし、昭和25年(1950年)7月1日、逗子町として新たなスタートを切った。

(まもなく昭和29年(1954年)4月15日に単独市制施行)

冒頭から紙数を割いて逗子町の戦時合併を紹介したのには理由がある。

愛媛県松山市でも同様な強制的編入が行われていたからである。

愛媛県温泉郡道後湯之町は明治22年(1889年)12月15日、道後村の一部から町制発足。

その後、昭和19年(1944年)4月1日、松山市へと戦時合併されている。

幻の道後湯之町独立

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道後温泉本館を町税によって建設した道後湯之町は愛媛県下でも戦前から上水道を整備するなど行政的にも先進性あふれる地域だった。

松山の玄関口であった三津浜町は昭和6年(1931年)、道後湯之町も昭和11年(1936年)に重信川の伏流水を水源とする上水道が完成している。

松山市に戦時合併させられた道後湯之町は、町民の手による上水道はもとより伊佐庭町長を中心とする賛成派と一部住民の反対派によって著しい対立の末に建設された道後温泉本館もそのまま松山市に引き渡すかたちとなって今に至っている。

藩政期、松山藩による直接経営だった道後温泉は、明治維新によって道後村、そして道後湯之町が受け継ぎ町の歴史を刻んできた。

現在、松山市の大切な財源として観光資源並びに温泉資産である道後温泉はこうした複雑な経緯の末、市民の誇りとして継承されてきた。

松山市民をしていまなお『道後王国』とでも呼びたくなるような独自性の端緒がここに見え隠れしていそうな気もする。

なお、道後湯之町も昭和23年の改正地方自治法を受けて住民投票を実施。

分離賛成多数によって独立できるかに思われたが、県議会による分離否決で実現しなかった。

専門員(上原六郎君)の発言より
「愛媛県松山市は、昭和十九年道後湯之町を合併したのであるが、昭和二十三年法律第百七十九号により区域変更が認められ翌二十四年住民投票の結果分離賛成が僅かに多数を得たのであるが、県議会においては、松山市と道後湯之町は密接不離な関係にあり、将来も分離は双方の不幸であるとの理由で分離案は否決され現在に至つたのである。」

▼参議院会議録情報 第007回国会 地方行政委員会 第45号 昭和25年5月2日

果たして道後湯之町独立は幻となり、現在、松山市の一町区としてその名を残すのみである。