失われたものへの憧憬は不思議なきらめきと胸騒ぎを今に与えてくれる。
とりわけかつては大伽藍を誇った大寺が跡形もなく消え去ったと聞くと子供が砂浜で拾ったガラスの破片を大切に胸に抱くように、かすかな痕跡を胸として在りし日の匂いを想う。
手の届かない心の中の、何か
時代の流れとともに栄枯盛衰は致し方なけれども、出雲の須佐神社から山を分け入ったところにあるという岩窟を中心に栄えた岩屋寺跡に始まって砂場が整地されたようにすっかりとかき消された寺も神社も多い。
古代や中世のうちに、明治維新の廃仏毀釈によって、戦火や陰謀、失火など、理由はさまざまだろうが固く法灯が現代に受け継がれてきた場所と消えてしまった場所との違いは何だろうか。
都会であれば道路の拡幅によって元あった神社が移転を余儀なくされたり、田舎に行けば山頂の祠に通うのが大変で麓に下ろしたものの、信仰自体が薄れてきた例も枚挙にいとまがない。
地に足を付けてその場所に暮らす者でさえ一つの流れを守るのは容易ではなく、それは吾が家の墓でさえ本来の場所に残すことは難しくなっている。
信仰の流れが変わっても高知県の高岡神社のようにいまだにその場所に土地の鎮守として残されていることもある。
だが、今年はやけにもはや消えてしまった場所を知ることが多かった。
夏に訪れた明日香では蘇我氏と関わりの深い山田寺跡を知っていまは簡単に整備されている者の草原になってしまったかつての大寺院の面影を想像した。
山田寺跡などはちょっとした史跡公園として整備されていて、ここに回廊があったとか金堂があったとか案内板もあるのでまだいいほうだが、つい最近訪れた石上神宮の神宮寺だったと伝わる内山永久寺跡は本堂そばにあったという庭園の池以外、すべて田畑に変わっていた。
石上神宮の神宮寺だった内山永久寺
かつて大和国のなかでも興福寺や東大寺、法隆寺に次ぐ規模を誇ったという内山永久寺は後醍醐天皇が一時仮御所に使ったという伝承も残る由緒ある寺院であった。
もとは興福寺の系統だったが、やがて真言寺院なり修験道の影響も大きかったという。
内山永久寺の悲劇は廃仏毀釈以外のなにものでもない。
明治に入って寺の僧侶はすべて還俗するか石上神宮に入り、本堂に多宝塔、三重塔をはじめかずかずの塔頭、末寺が三方を山に囲まれた谷に集中していた。
「西の日光」として江戸時代は参詣者の絶えない寺だったそうで、想像だが石上神宮などより庶民には有名だったかもしれない。
それが明治の政策によって廃絶すると、本堂以下建物は燃料にされ、仏像や掛軸は売り飛ばされ、ちりじりなった。
不幸中の幸いというべきか、寺内の鎮守の拝殿だった建物だけが田畑に変わった境内跡に残されていて、大正になって石上神宮に移築されるのである。
それが現在国宝に指定されている出雲武雄神社拝殿である。
拝殿として移されながらお尻を拝殿に向けて出雲武雄神社に参拝するかたちとなっていることの不可思議さにはここでは立ち入らないが、これほどの立派な拝殿が鎮守明神の付属建築だったことからしても、寺全体の大きさはすさまじいものだったにちがいない。
石上神宮から山の辺の道を歩いて
ふと石上神宮から山の辺の道を歩いてみた。
何度も石上には来ているのに初めてだった。
木堂の集落にある白山神社を参ってからそのまま南へ行くと、内山永久寺跡の案内板が見えた。
たしかネットで石上神宮の神宮寺だった読んだことがあり、気になって行くとそれなりの池の畔に寺の絵地図の案内板が立っているだけだった。
不動明王に導かれて
ただ、そのすぐ手前に石碑があった。
東に延びる農道を進むとお不動さんを祀った場所があるらしい。
江戸時代のものなのか案内板の絵地図に描かれた山の峰に不動の二文字があったので内山永久寺のよすがを忍ばせるものがあるかもしれない。
よく熟れた柿のなる果樹園のなかを通る道はゆるやかに登りに転じていき、やがて善根杖のある場所まで来ると、これは結構な山登りになるかもしれないと覚悟した。
こういう人知れない祠へ向かうときは勘だけが頼りということも多い。
その場所を知っている人しかまず訪れることがないとなると、わざわざわかりきった矢印や案内板を立てる必要がないからだ。
最前の絵地図をなんとなく頭に入れていたが、古い古地図独特の抽象的な構成なので頼りにはならない。
分岐がいくつかあってとりあえず気になる峰のある方へと選んで進んでいった。
やがて登りやすいようにしっかりとした鎖を整備された険な坂道が続くようになると息も上がってきて、ようやく登り切った絶妙な場所にベンチが備えられている。
ちょっと休んでから歩き出すと道は緩やかとなって小さな祠が3つ集まっている峠に出た。
簡単に拝んでからさらに奥へ進むと緩やかに下る道と植林の杉林の中を登っていく道との分岐に出た。
ここでまだまだ絵地図の不動は山頂の方だと思いどんどん登っていったが、一向に気配が感じられない。
山林保全のための作業道のようでポイントごとに幹にはペンキで数字や文字が書かれているので人が歩いたことがあるのは事実のようなのだが、どんどんと傾斜がきつくなるがふと行けばいくほど中空に吸い込まれそうな感覚が強まったので引き返すことにした。
何度か道を迷いながらまた引き戻し、ちょっと不安になりながらも木漏れ日が美しく感じられる午後、分岐まで戻ると15分ぐらいのロスが出ていた。
山の中では数分でも行き先の目星がつかなくなると途端に心細くなるものである。
不動明王の祠に到着
分岐からなだらかに下る方を選び直して少し歩いたらすぐに谷川にが見えてその小さな滝に不動明王が祀られていた。
その場所は寺はなくなっても、熱心な信者さんがいまだに守り続けていることがすぐにわかった。
不動明王の石像も新しいかったことはもちろんだが、こんな山の中にと思うほどの立派な参籠所がプレハブで立てられていたし、この不動の聖地を守るいきさつの書かれた石碑もしめやかにあった。
谷川を吹き降りてくる風が登山で汗をかいた体に心地よい。
内山永久寺の裏山であろうこの場所で修行が行われていただろうことは想像できるが、現在ここにいる意味はよくわからなかった。
しかし、いまはかき消されてしまった寺の矜持の火が人知れない山奥に連綿と受け継がれているのを感じた。
ただ見届ける、ということ
こういう場所は「ただ来ました、はい、それで終わり」といったものである。
およそ神社やお寺にお参りして手を合わせるというのとは違ってあまりにも地味すぎて笑いが出そうになることもある。
そこにこれがあったとただ確認することそのものが自分にとって清らかな価値を持つ。
あの不動の滝から帰って数日経っても、内山永久寺のことを少しネットで調べ始めるだけで出雲の山奥の消えた寺や四国のどこかのなくなった神社、わからなくなった祠などなど、そうした消えていった土地のエネルギーのせいなのか胸騒ぎも鳥肌も立つような状態が続いている。
もの悲しいのだろうか。
でも、こうした心地は恋する相手に一晩会えず、長い夜を明かすような切なさに似ている。
何もないただの山、ただの川。ただの谷。
そうしたものに恋しているとは思わないけれど、そのなかには自分がかつて間違いなくそこにいたという土地もあるだろうし、合理性のない墓参りをいまだに遠い墓地にまで出かけていってやるのだろうかという理由をわからないでいるというのが理由という人の営みを連想したりする。
廃仏毀釈の果て
内山永久寺跡の寺宝は現在遠くは海外にまで散らばり、日本国内で残された仏像や掛軸の大半は国宝や重要文化財に指定されている。
鎌倉時代の名品と称される四天図はフェロノサの手から現在遠くボストン美術館にあるという。
世界中に散逸していればするほど、この人々の記憶から消えてしまった大寺の生々しい匂いと天理の地中深くに埋められたままとなっている重々しい見えない心御柱が眼前に立ち現れそうである。
2014年11月26日執筆
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