中学生の頃、母に「なぜ小さい頃から音楽を習わせたのか」と尋ねたことがあった。
姉も私も、3歳からエレクトーン、姉は高1、私は中1からピアノも習い始めた。
数あるお稽古事の中でも、なぜ大きなジャンルとして音楽だったのか、そのあたりが気になっていたのだ。
ちょうど、夕飯が終わって母と姉と団らんしていたときだったと思う。
「これから思春期、そして大人になるにつれて、言葉では自分の思いが伝えきれないときが必ず来る。そんなときのために、音楽をちょっとでも習っていたら、役に立つかもしれないと思って」
母はそう答えた。
物心ついた頃から第6感が思考や感覚感情の前提である私にとって、言葉を扱うということはまどろっこしいことだった。一言のなかにすべてが込められているはずなのに、大人たちは自分が感じているよりも言葉の表現方法や角度を変えなければ伝わらないような印象があったからだ。
もちろん、子供が故の言葉や思考、表現の稚拙さが大きかったであろう点はこの問題を考える際、看過できない。とはいえ、直感が一番正しいと自負する当時の私からすると、言葉で表現する時点で、水を手で掬って運ぶみたいに、あっという間にすべての指と指の間から自分の真意が漏れ落ちてしまうようだった。
音楽であれば、言葉のような具体性は乏しいものの、心の有り様をそのままの状態で表現できる、いや表現可能な手段ではあると言える。ただ、自分の考えや思いを文章にまとめていく、という作業よりは、たとえ技術は拙く、一通り演奏できる手前の段階であっても、音楽という時間が不可逆的な流れにおいて支配される状態に没入することはできるだろう。
表現する、ということを100メートル走に喩えてみよう。自分の心の中の、ぼんやりとした心象風景がスタート地点だとすると、言葉で表現するというのはゴールの100メートル地点である。その場合、音楽や絵画、彫塑などのアートとしての芸術は、言葉を用いる芸術である文学あるいは単なる伝達手段としての言葉より、もっと手前の50メートル、30メートル地点にあるのかもしれない。
この両者の差は、自分の思いを100%のままで伝えたいという人間にとって悲観的な隔たりがあるように思う。
言葉を使って、私はどこまで他者に自分の心象風景を伝えられているのだろうか。思考であったり、事実であったり、意見であったり、そういった合理的情報であれば存外それほど悲観しなくてもよいレベルで伝えられているのかもしれない。しかし、心象風景であったり、感情や感覚であったり、さらに深度のある直感やイメージであったり、そういったより意識と無意識の中間、集合意識のレベルのテーマとなったとき、伝達度を完全に計測することができたなら、絶望しなければならないくらい伝え切れていないような気もする。
そうなると、あらゆる表現はすべて無意味であり、表現しないこと、つまりすべてを心の中で理想の状態のまま留保し続けることこそが完全なる表現活動である、といった詭弁めいたロジックも成立するのだろう。
オスカー・ワイルドが“Nature imitates Art.”(自然は芸術を模倣する)と言ったように、自然の側を芸術によってコントロールすることでしか生きられないのかもしれないし、それでも私たちは、言葉にせよ音楽にせよ絵画にせよ、あらゆる表現手段に対する絶望を抱えながらも、今日もまた、誰かを好きになってはその好意を何とか伝えようと心を砕くのであろうし、誰かを嫌いになってはその憎悪をあらゆる手段を講じて表現し尽くしたいと願うのだろうし、それしか残された手立てはない。