午前中、京都の山科での用事を済ませると駅までのんびり歩いてみた。
iphoneのgoogle mapで現在地検索をすると近くに若宮八幡宮というのがあった。
神社のポイント
若宮八幡宮(京都市山科区)
本社
仁徳天皇(にんとくてんのう)
應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
天武天皇(天武天皇)
末社
天満宮 宇治稚郎子命(うぢわかいらつこのみこと)
菅原道真(すがわらのみちざね)
社格は旧村社ながら飛鳥時代に遡る古社で境内には私にゆかりのふかいスサノオさんや菅公さんが主にまつられていた。
7世紀(601-700)後半、662年-669年頃とも、第38代・天智天皇は、志賀の都から山科郷へ巡幸した。この時、音羽の杜に八幡神を勧請したのが始まりという。
印象深い磐座
鬼門で不思議な場所に
とくに気になったのは本殿の鬼門の位置に銘の刻まれていない自然石の磐座だった。
悲劇の大津皇子
そして、大津皇子の供養塔も存在感満点。
天武天皇崩御の翌月、川島皇子(天智天皇の皇子)の密告により、大津皇子(天武天皇の第三皇子で草壁皇子の1歳年少)の謀反が発覚して捕縛される。密告した川島皇子は天智天皇の第二皇子で吉野の盟約にも参加しておられた。関係者30余人も捕らえられた。皇太子・草壁皇子の異母弟であり、川島皇子の6歳年少ではあるが、天武12年2月1日条には「大津皇子が初めて朝政をお執りになる」とある。
皇位継承にまつわる実に悲しい出来事であった。具体的にどのような謀反の計画があったか、謀反の実行行為として、どこまで準備がなされていたかなどは定かではない。大津皇子は鸕野讚良の同母姉である大田皇女を母とする皇子で、後嗣とされた草壁皇子に次ぐ皇位継承候補者であった。
翌10月3日、大津皇子は自害させられる。24歳であった。捕らえられた翌日のことで過酷な運命といわざるを得ない。妃の山辺皇女(天智天皇の皇女)は殉死された。
どちらもこの社が建てられた理由を静かに、しかしささやかに強く主張しているふうに感じられた。