多いときは伊勢に年5回、出雲に年5回、天橋立には年3回ほど通っていた時期もありました。
伊勢から鳥羽、志摩のあたりを回るとき、どこかおいしい食べ物やさんがないかと探していて見つけたのが、鳥羽市の石鏡漁港にある西村食堂でした。
ボリューム満点のお造り定食やジャンボフライで有名なこのお店。家族旅行で訪れたこともあります。
円谷英二と伊勢
その関連で石鏡を調べていたとき、1954年公開の「ゴジラ」の第一作の最初のシーンのロケ地だったと知りました。
先祖と伊勢神宮とのつながり
円谷英二はなぜこの石鏡を選んだのでしょう。
やがて、円谷英二のご先祖は伊勢神宮の御師を務めていて、伊勢には「積良(つむら)」という地名が残っていることを知りました。ひょっとするとわずかでもそうしたつながりが関係しているのかもしれません。
残念ながらそのきっかけとなったホームページを今見つけられませんでした。ただ、伊勢市に近い玉城町積良には柳田国男の「山宮考」や谷川健一が「祭場と葬所―『山宮考』覚書」などで触れた山宮祭祀の跡があると書かれていました。
円谷からブログまで
5年の月日が過ぎました。
これまで現地に問い合わせたり、資料を集めたりしていました。
3年前、ようやく下記のブログでアクセス方法がわかったので、時機を見て現地を訪れました。
荒木田二門の拝み所
山宮神事の遺蹟は、度会郡玉城町積良の泉貢池のそばにあるところまでは文献やネット情報でつかめていました。
山宮祭を司っていた荒木田二門とは、伊勢神宮の内宮の神官を輩出した氏族。中世には一門と二門に分かれて、幕末までさまざまな分家が栄えています。とくに国学者を多く輩出したことで有名です。
積良地区には内宮末社の津布良神社があります。
その付近の谷にある「拝み所」は、荒木田氏の祖霊が宿るといわれて連綿と祭祀が続けられてきました。現在は地元の方が丁重にお祀りしています。
敗戦直後に書かれた柳田の「山宮考」
敗戦直後の昭和22年、柳田国男はこの山宮を題材に「山宮考」を脱稿。先祖の魂は村の近くの山に還っていって、宿り続けて子々孫々の営みを見守るという民俗信仰の仮説を打ち出しました。
人が死んだら魂は山の上空に昇って子孫を見守るという信仰を推定し、「祭って居る神が、遠い先祖の霊だったことは判り、それが一定の期日を約して、山から降って来られる」「山の峯の前後左右は天つ空であったこと、又一つには次々の子や孫が、なほ同じ路を過ぎて高い處へ、昇って行くものと見られて居た」と書いている。
何度も伊勢を訪れているものの、なんともいえない空虚感がずっと残っていました。いくら近づいてもよそいきのまま距離を置かれてしまっていて、一歩深いところに触れることができない感覚です。
この山宮祭場の存在を知ったとき、ここに行けば伊勢の原型に何かしら触れられるかもしれないと思っていました。
地元住民のブログをきっかけに現地へ
旅先でこうした場所を訪れるとき、地元の方のブログは大変参考になります。何回か時期を置いて探索するか、地域の方に道案内をお願いしようかと思っていたので、ショートカットでたどり着くことができました。
ある日のこと、伊勢自動車道の玉城インターを下りて幸神池のそばに車を停めました。到着が遅れてすでに日没直前だったので、ヘッドライトを用意して急ぎ足で泉貢池の方向へ向かいます。
高速の高架のトンネルを抜けると、目の前に池が見えて、畔を右に巻き込むように進んでいきます。すると、薄暗くなった木立にうっすらと鳥居が見えました。
拝み所
最初に見える鳥居は荒木田二門の拝み所です。
鳥居をくぐって石段を上がると、2本の木の幹にしめ縄をしてあります。
磐座の上は崖で、大きな石がいくつか露出していました。
聖所
拝み所からさらに奥に進むともうひとつ鳥居があって、こちらは荒木田二門の聖所です。
鳥居をくぐって石段を歩いた先に、拝み所と同じく2本の木の幹にしめ縄があり、こちらはより石を意図的に組み合わせていて本格的な磐座になっていました。
荒木田氏の先祖につながる古墳とかかわりがあるのかもしれません。
やっと宿題を終えて
この2つの場所で手を合わせると、すっかり伊勢の用事は終わった心地がしてきました。このまま引き返して帰路についてもいいというくらい、すっきりしていました。
ただ、体の方は長時間の運転でヘトヘトです。急遽、宿を二見ヶ浦にとりましたが、結局今回は内宮も外宮もスルーして伊勢をあとにしました。
『山宮考』関連文献
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