「二十歳まで生きられない」と言われた親友が逝った話[1]

高度経済成長に入って医学が飛躍的に進歩するまで、「二十歳まで生きられない」という言い方があった。

生まれつき身体が弱い、先天的な病気がある、などの理由で、大人になるまで育たないだろうという子どもは少なくなかったようだ。

「二十歳まで生きられない」という言い方

実際に、戦後間もない時期に生まれた両親も、子どもの頃から身体が弱く、「二十歳の誕生日を迎えられるかどうか」と医者に言われていたそうだ。

父の場合は、本名のほか普段は親から「勝広」というあだ名で呼ばれていた。

「打ち勝つ」に通じる漢字を入れた愛称を付けることで、子どもに逞しく育って欲しいという願いを込めた風習である。

徳川家康なら幼少期、竹千代と呼ばれていたように、一定の年齢まで幼名を使っていた古き日本の文化の一端を感じる。

一方、母も、子どもの頃から何度も入院したり、手術を受けたりで、高校生くらいまでは体調面で、きちんと学校にも通えなかったようだ。

医療が発達した現代の視点に立てば、多少体力的に弱い部分はあるにせよ、父も母も「二十歳まで生きられない」とまでは言われないかもしれない。

今でも、せっかく生まれてもわずかな時間しか生きられなかったり、根本的な治療がないため思うように生活ができないこどもたちは少なくない。

しかし、医学の進歩とともに、先天的、後天的に関わらず、生きられなかった命が助かった、いくつまで生きられるかわからなかった子どもが大人になれた、というケースはまったく珍しくなくなった。

同い年の親友が亡くなる

今年、先天的な難病を含めて、いくつもの病気と闘いながら前向きに暮らしていた親友がなくなった。

私と同じ年だが、誕生日まであと少しだったため、満44歳だった。

彼女と知り合ったのは25歳のときだった。

当時はまだネットもあまり普及していない時代。

もちろんスマホはまだ姿形もなく、NTTドコモが『iモード』で一世を風靡していた頃だ。

『H』というロック系ながら若者のあらゆるトレンドにアンテナを張った雑誌に文通欄というのがあって、趣味や考え方が合いそうな文通友だちを探すことができた。

その文通欄には住所や氏名は書かれていない。

気になる人のペンネームに書かれた番号宛てに手紙を書いて出版社に送ると、まとめて本人に転送してくれるシステムである。

早ければ半月から1ヵ月で返事が来るはずなのに、数か月経っても一向に郵便受けに彼女からの手紙は届かなかった。

その年の春先に手紙を送って、残暑厳しい9月に入った頃、待ちに待った返事が来た。

一通目の手紙には、返事が遅れたことへのお詫びの言葉に続いて、先天的な病気がいくつかあること、それが原因で脳梗塞になってしばらく入院していたこと、手紙の文面から好きな作家や趣味が合いそうであること、などが丁寧に綴られていた。

その当時、私は中山可穂の作品ばかり読み続けていた。

レズビアンを公言している作家で、「猫背の王子」や「白い薔薇の淵まで」といった初期の作品には熱烈なファンが多かった。

学生時代、専攻は英米文学だったが、大学生のうちに独学で学んでおきたい分野に精神医学や心理学とともにジェンダー論があった。

最近は、あまりジェンダー論という呼び方は聞かなくなってフェミニズムやLGBTの用語を使われることが多いだろう。

性別による文化の違い

子どもの頃から、性別による違いというものが気になりながら育っていた。

もともと母ができるだけ男女の区別なく子育てをしようと考えていたこともあって、「男の子だからやりなさい/やってはいけない」という言い方をほぼ聞いたことがない。

私自身、姉の影響もあったにせよ、小さい頃はロボットの人形で遊ぶよりもおままごとのほうが好きだったし、幼稚園から小学校に上がる頃には、祖母や母に編み物や裁縫、料理を習ったり、家で読書をしたりするほうが好きだった。

また、小学校1年生のときにはランドセルに始まって着たい服の色も青や白などのほかに赤やピンクも気になっていたので、「どうして男の子と女の子というだけで色に差があるのか」「親や先生から教えられる言葉遣いや振る舞いに違いがあるのか」などを一人で考えていた。

このような物心付いた時代からの蓄積があって、大学生になったらできるところまでジェンダー論やフェミニズムの考え方を学びながら、自分の疑問点と照らし合わせたいという思いがあったのだ。

フェミニズムから中山可穂へ

英米文学専攻に入学すると、社会学と並んで英米文学の分野もフェミニズム研究が盛んなことを知った。

入学時点で、将来は大学院に進学して研究者を目指そう、英米圏への留学を視野に入れていこうと考えていた当時の自分にとっては、研究アプローチの一つとしても大変魅力的な学問だった。

1990年代後半から2000年の初め、文系の大学生であればジェンダー論やフェミニズムという言葉は知っていたと思うが、一般的にはまだまだ知られていなかった。

LGBTやクイアという言葉はもちろんだし、同性愛者全般を指すゲイという知名度より、一般には男性の同性愛者は『ホモ』、女性の同性愛者は『レズ』という言い方が浸透していて、語感には多かれ少なかれ排他的なニュアンスが存分に含まれていたと思う。

国内では竹村和子や江原由美子、駒尺喜美、上野千鶴子など、海外ではジュディス・バトラーやUCLAのリベラル・アーツ系の書物からジェンダー論やフェミニズムの理論的な独学から入っていた私だったが、もっと文学作品を含めた広い視点で触れてみたいと考えた。イギリスのオスカー・ワイルドやジャネット・ウィンターソンをはじめいくつかの海外文学を読みつつ、書店に行っては国内作家でジェンダーや性と生をテーマにした小説を探していた時期に出会ったのが、中山可穂だった。