「考える」手前の半熟状態を温め続けるには

「考える」ことに溺れて

考える

人は「考える」こととどう距離を取ればいいのか。

ここ最近、自分の考えることを存在させることへの不安さを感じながら生きています。

「考えない」こともできない一方で、「考えすぎる」ことは暮らしを息苦しくする現代。

考えすぎないほうが幸せなのかもしれないと思いつつ、人は実生活に直接役立ちそうもない、功利的に意味のない膨大な考え事をし続けます。

そして、ある考えには背景に一定の知識や経験、情報といったエビデンスが必要ではあるものの、私たちは何より、考える前に感じているのであって、考えだけを取り出して表出することはできません。

今、とてつもなく、考えるということが希薄で、私の考えが世間にとってはもちろん、自分自身にとって意味を感じないという感覚が強まっています。

感情や感覚が引き下がって、理性や思考が全面に押し出される時代といいながら、世の中を流れていく情報に、理性や思考という仮面をかぶった直裁的な思考や偏見じみた意見が数多く混じり合う今、「考える」ことをどう考えるか、について差し迫った必要性を感じるのです。

「考える」ことをツールにしてしまう危うさ

批評が何か、そんなことは知らない。しかしお前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に、百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』 (岩波現代文庫)

ふと、私は、考えることを、主に、他者の考えることからの防御のためのツールとして使おうとしていたのではないかと気づきました。

考えることの根底には、理解不可解なこの世を見るための世界像を、自分なりにどうやって作り出していくか、その始まりを忘れていたのかもしれません。

考えに対抗するために考えるのではなくて、思考以前の渾沌とした世界をどう感じて、どう捉えるか。

すべて自分の内側に考えて出来上がった箱を並べていくか。

リアリティではなくてアクチュアリティを大切にすべきなのに、長い間ずっとそんな基本的なことを忘れていたのだと思います。

考える

言葉よりも意味を優先すること

ものを考えるとき、人は息をつめる。しかし息をつめ続けていたら死んでしまう。ものを考えるのは、リラックスしていることとの往還なのだ。

ふだんの人間がふだんに感じる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単ではないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』 (岩波現代文庫)

現実より言葉の位置を高くしたり、低くしたり、そうしたことは誰でもついやりがちです。

私たちは考えること、つまり言葉によって現実を創造し、操作し、支配できると思っているからです。

ただ、言葉と意味が乖離していく状態というのは、内面において不安なく暮らしていくという点では障害になりやすい。

現実と考えること、その間の半熟の状態をいかに大切に温めていけるかに興味が湧いています。

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』 (岩波現代文庫)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする