ジェットスターで成田空港に到着後、京成電鉄にて都心へ向かいます。
特急の中はそれほど人の混雑もなく快適でした。
成田空港から都心へ向かって
発車してしばらくのどかな田園風景が広がります。空港で上がっていたかに見えた雨が次第に降り始めました。春らしい霧のような冷たい雨です。
成田の田園風景
ふと車窓を見ていると3年ほど前、神社巡りで富士山浅間神社から群馬県高崎市へ抜け茨城県の鹿島神宮を車で旅したことを思い出しました。台風と歩調を合わせるかのように旅したのでとても印象に残っています。台風一過、天気の回復した鹿島神宮から成田を経て南関東道路を千葉方面へ。ちょうど成田からはこの京成沿線と同じく地平線が見えるような田園が広がっていました。
年末時代劇『五稜郭』と佐藤泰然
ふと、京成佐倉で降りようと思い立ちました。佐倉市は友達の実家のある町でもあるのですが、それ以上に佐倉順天堂の創設者である佐藤泰然ゆかりの地の印象を強く持っています。
バブル期、年末時代劇という里見浩太朗の特番があり、その第五弾を『五稜郭』といいました。幕臣として箱館戦争を戦った榎本武揚が主人公の物語でしたが、森繁久彌が演じた武揚の義祖父に当たるのが佐藤泰然でした。
子供の頃に見たものは妙に記憶に残るもので、「蘭方医で佐倉順天堂の佐藤泰然」というのが大きくなっても引っかかっており、いつしか行ってみたいと思っていました。
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京成佐倉で下車
京成佐倉駅からは徒歩20分というのでバスを使いました。10分もかからぬうちに順天堂病院前で下車してすぐです。
佐倉順天堂記念館
かつて旅人が往来した成田街道前に、比較的新しそうな門がありました。
泰然が江戸から下総佐倉に移った理由は特定できないが、佐倉藩主が蘭癖大名といわれた堀田正睦(まさよし)であったこと、家老の渡辺弥一兵衛の誘いがあったのも確かである。泰然は移住を決意すると、ただちに佐倉の町外れに土地を求めた。1843年(天保14)春である。
佐倉城下の東端に近い佐倉本もと町で、図には泰然と書き入れがあり、間口15間、奥行き50間、東隣は重右衛門の宅地で間口5間半、奥行き50間となっている。1間=1.81メートル。
隆盛期は二千坪の敷地があったといいますが、いまは二百坪も残っていないようです。
こちらが佐藤泰然翁の銅像です。
イメージより華奢な感じの方のようです。
残念ながら館内は撮影禁止だったので手持ちの写真は二枚しかありません。
しかし、ちょうどボランティアガイドの活動日に当たっていたため、詳しい解説を聞きながら見学することができました。
弟子のなかから後継者を選ぶ
一番印象に残ったのが、順天堂の後継者に佐藤泰然は実子を当てることなく弟子のなかから優秀な人物を養子として迎えたとのことです。お話のなかでは少なくとも4代目までは養子だったようです。
佐藤泰然には、会津戦争で幕府方の軍医だった松本良順(次男)を始めとして五人ほど実子もいたらしいのですが、皆、他家へ養子に出されていました。実子たちも各々の場で明治期の医学に大きく貢献した者、教育分野で大学の創設や発展に尽くした者などがおり、今回改めて佐藤一族の優秀さを知りました。
郷土の偉人として市民に親しまれる
佐倉市内の小学校では授業の一環として佐藤泰然や松本良順らを郷土教育のなかで伝えているそうです。市教育委員会から出されている子供向けの読本も見せていただきました。
順天堂が佐倉と東京に分かれた理由
佐倉の順天堂と東京順天堂は佐藤泰然の孫あたりの代で別れたようです。東大医学部の前身を設立するときに奔走したのが順天堂の弟子たちでした。初代学長に佐倉順天堂から佐藤泰然の後を継いだ佐藤尚中(たかなか)を呼び寄せた経緯によります。
江戸時代の順天堂は全国各地から医学生が集まった。教育方針はオランダ語の習得のみに専念するのではなく、蘭書を読み、西洋医術を実践することであった。明治時代に入り、新政府に招聘された佐藤尚中が門人を率いて東京に戻り、順天堂の本流を継承する。一方、佐倉順天堂は千葉県の拠点病院として発展した。
順天堂というと東京にある東京順天堂のイメージが一般的ですが、少なくとも佐倉市民にとっては順天堂のルーツはわが町にありという誇りを感じました。
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