ジャンヌ・モロー出演の映画「クロワッサンで朝食を」を観劇しました。
「デュラス 愛の最終章」以来の、モロー主演の映画です。
圧倒される存在感
筋立て自体は至ってシンプルで、「皮肉屋で意地悪く孤独な老婆が、新しくやってきた家政婦に心を開く」というもの。
しかし、見終わったときの味わい深さはさすがフランス映画、さすがジャンヌ・モローの存在感といった素晴らしさでした。
何度か登場する、玄関から長い廊下を歩いて寝室に消えていくジャンヌ・モローの後ろ姿の光景。ラストシーンで効果的に使われています。
故郷を遠く離れ、自由奔放ながら孤独に生きてきた一人の女性の威厳が心にしみてきます。
年寄りとはダークな存在
基本的に年寄りというのは意地も口も悪くて辛辣なものです。
「おじいちゃん、おばあちゃんってかわいい」
「お年寄りは大切に」
という言葉を聞くたびに、年を重ねることで堆積していく時間の重み、経験の皺というものを理解しているのだろうかと、訝しくなります。
祖父母と生まれたときから同居していたため、核家族化によってお年寄りと離れて暮らして育った同世代と違って幻想がないというのもあるかもしれません。
物心ついたときから祖父母というもの、年寄りというものは意固地で灰汁の強いものだと思って育ってきました。
平気で皮肉もいうし意地悪くちょっかいも出してきます。
小さい頃から散々、周囲の悪口も聞かされてきたので、お年寄りというのはそういうものだと思っていました。
これはなにも我が家の年寄りだけがそうだったというのではなくて、多かれ少なかれそういうものでしょう。
一緒に暮らしていれば家族で祖父母と孫の関係といえども揉め事も起こります。
ただ、お年寄りの持つ独特の嫌味や強い癖というのは、やはり孤独がゆえに周囲に甘えたいことの裏返しだとも思うのです。
親が亡くなり兄弟姉妹も他界していって老いというものに直面するとき、すでに誰にも守られない、甘えられないという思いが強まるのかもしれません。
長年お付き合いのあった方が80歳を過ぎたころに、ふと、
「夜中、ぱっと目が覚めたとき、天井を見つめながら『いま死んだら、いったい何人が葬式に来てくれるのだろう。棺桶の前で泣いてくれるのだろう。』
そんなことを思いながら来てくれそうな人を一人一人数えていく」
と言っていたのがとても印象的でした。
人生の黄昏に人は何を思うか
人生の黄昏が近づいて、自分の痕跡をいかにこの世に残せたのかどうか、結局自分はやがて忘れ去られるのはないか。
そうしたこの世の舞台のスポットライトが消えようとすることへの悲しみが、年寄りのさまざまな癖の強さの背景にあるように感じます。
意地汚さ、辛辣さ。そうした欠点さえも合わせて、人間同士でぶつかり合った果てに、不思議な愛情が芽生えていく。
丸ごとそのままによる関係性の希少さというのを祖父母との関わりを通して学んだ気がします。
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