10代のメンターだったAさんが70代後半のとき、葬式に何人来るだろうかと夜目覚めたとき、天井を見つめながらぼんやりと考えていた、とつぶやいていた。
今、私が死んだら何人が通夜と葬式に来るのだろうか。
母と姉家族、そして数人の親戚くらいだろう。家族葬として通夜は自宅で行い、その後は火葬場で直葬になるか、よくて施設内の会場で簡単な告別式を済ませてそのまま焼くことになると思う。
自分が死んだ後の葬式の人数で何かを証明しようとしても無意味だが。
ビジネスにしてもプライベートにしても、公私あるいは是非、もっといえばただ表裏の問題にすぎない。
自分の心の深淵にどこまで沈潜できるかという、深浅の問題。
社会的引きこもりなのか、単に孤独なのか、はたまた「永遠の少年」を地で行っているのか、それとも単純に大人になれず世間で迷っているだけなのか。
こんなくだらない文章を書いても、世の中の役にも立たず、何ら意味もなさないのであるが、それでも書いているあいだだけ私は、時間が規則正しく無情に過ぎゆく日常にいるよりも、いささか心の奥に潜り込めているという実感がして、気持ち救われるのである。
顕在意識のセルフイメージと、潜在意識のセルフイメージが、かぎりなく相似に向かって合わせろうと歩み寄っていくプロセスに、ただ私という個の中にしか感じ得ない、愉楽的な価値がある。