今治でのお遍路最終日。
今治市玉川町の第57番札所・栄福寺の前に、裏山の石清水八幡神社を訪れました。
神仏習合の名残り
事前にネットで調べたところ、参道を直進すると小高い丘の上に石清水八幡神社があり、栄福寺は麓にあって参道を右折するとあります。
もとは神仏習合で神社と寺院が一体であって、本体はお寺ではなく神社なのだろうと直感。
まずは麓の鳥居をくぐって薄暗い石段の参道を上がっていきました。
石清水八幡神社を参拝
石段を登り切ると、山頂直下に石清水八幡神社の社殿が建っていました。
神社の前はちょっとした小学校の校庭ぐらいの広さがあります。
栄福寺はお遍路さんでそこそこ賑わっているのに対し、こちらには誰一人やって来ません。
そもそも、この神社自体、本来はこちらが中心地なのにお寺にすべてをもっていかれたように感じます。
そういえば、先日も似たような構図を体験しました。
西予市宇和町の第43番札所・明石寺です。
四国遍路の札所で参拝者の絶えない境内で、時代に取り残された熊野神社。
いや、明石寺のケースよりもさらに重たいものを感じます。
拝殿でお参りしても、しーんとして響かない様子。
困りました。
磐座のエネルギー
左手に回ると境内社があってこちらのエネルギーの圧縮度が気になります。
後ろに回り込んでみると、6、7mにわたって岩肌が露出しており、熱風がこちらに迫ってくるかのような濃縮なエネルギーがやってきて驚きました。
ふと木立の方を見ると、けもの道らしきものがあってたどっていくと、案の定、無数の磐座が並んでいます。
どうやら全体的に山頂から南の方角に並んでいるようです。
もとはこの山頂を古代祭祀していたのか、もしくは山頂部だけ古墳になっているのかもしれません。
山頂あたりにはいくつか祠も祀られていました。
ハードな光景に遭遇
いったん拝殿まで戻って、次は右手に回り込んでいきました。
すると、ごつごつした岩肌が本殿を取り囲んでいます。
さらに木立を進むと、神社巡りでひさびさに藁人形とご対面。
逆光に五寸釘と2体の陰が、鮮明に浮かび上がっています。
すぐそばには人工的に組まれたような北向きの磐座がありました。
こちらの北側は先ほど回った南側に比べるとかなり重たく、神社の意味合いが薄れてしまってからさらに陰が強まったような様子でした。
いくつかことばを捧げて、できるだけ浄めてはおきましたが、近づかない方が無難でしょう。
神社から今治市内が一望
丑の刻参りとのコントラスト。
際立たせるように、境内から北を見ると今治市内が一望できるすばらしい眺望が広がっています。
そして栄福寺を参拝
丘を降りて、栄福寺をお参りしました。
コンパクトにまとまっていてとても気持ちのいい境内です。
時代が下って、貞観元年(859年)、僧、行教(ぎょうぎょう)上人が、九州の宇佐八幡の分社を、京都の男山に建立するため、瀬戸内海を往来中に、暴風雨に遭いこの地に漂着しました。そして府頭山が男山に似ている事に驚き、山頂の阿弥陀如来を本地仏として、八幡神を祀り、神仏習合の八幡宮を建立したと伝えられます。
その後、明治政府による神仏分離令により、お寺は山の中腹の現在地に移転。
このように、明治の神仏分離のあおりで栄福寺だけが麓に移転したとのことです。
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