大学の頃、論文を書くとき、京大式カードに四六時中思い付いたアイデアを書きためていました。
原稿用紙10枚や20枚の論文でもカードが50枚から100枚程度は必要でした。
30枚ぐらいの論文を書くときでも何十枚も京大式カードを書きためて、それを寝かせながら付け足したり削除したり移動させたり、カードを広げて順番をどうするか何度も試行錯誤したり。
床の上にメモが書かれたカードをばーっと広げて、それを組み替える作業をしながら付け足したり省いたりを繰り返すのです。
鎧のパーツになぞらえてこの作業は「さがね」と呼ばれます。
自分の点のアイデアがどんどん線となり形にまとまっていので、とても心地よいひとときです。
自分のアイデアの論理性が整っていく、本当に書きたいこと、伝えたいことで一つの論文が肉付けされていくプロセスは書き手にとって楽しい時間となります。
今年、書くということがよくわからなくなってきました。
なぜ書くのか。
文字そのものを吐き出すこととは何なのか。
そんなとき、京大式カードで論文を書いていたときのことを思い出し、Evernoteに少しずつメモをするようにしていくと、自分が一番(自分のために)文章を書いてたのって高校から大学時代で、こないだからどうやって書いてたかを思いだして感覚を取り戻して来ました。
書くことがただ吐き出すことになっていた?
ふとしたアイデアを貴重に思って、できるだけメモを書きためていたあの頃。
この頃は、ずいぶんとメモ取りをしなくなってしまっていました。
それはどうしてなのだろうと考えていたら、きっとTwitterの出現で、玉石混交のアイデアをすべてつぶやいて消費してほっとするようになったからと思い至りました。
自分の内側で承認欲求を満たしたい出来事が起こってから、TwitterのようなSNSで吐き出すことによって、欲求解消へのプロセスが短期化し、陳腐化したのかもしれません。
とにかくTwitterがなかったから(笑)、些細なこと(アイデア)でもよくメモを取っていたなぁと思い出します。
5年ほど前、Wordpressでブログを書き始めてからこちら、ブログの記事を書くためにメモや下書きをほとんどしない、1,500文字ぐらいなら頭の中で書きたいことのブロックが数個程度なら脳内で組み替えられるからそれで一気に書く、などばかりして来ました。
ただ、これでは自分の中の文章を書く、思考を深めることの喜びを感じづらいことに気づきました。
ライフハックが行き着く先の世界で
ライフハック、時間節約、効率化が自明となった世界にあって、立ち止まること、時間を掛けること、思考を深めること、タイミングを見いだすまで熟成させておくこと、などの価値が下がった、というより、優先順位が変わったように感じます。
第一線で活躍する人たちはきっと質と量が同時にものすごく、瞬殺で物事を深く進められるのだと思うのだけれど、自分のように凡人にはそれが難しいのと、速さに巻き込まれすぎて生きて行くのが性に合わないというより心身が疲れてしまうので、そこは無理して合わせる必要もないのかもしれません。
文章を書くというシンプルの行為を、どの程度仕事として捉えるのか、表現として捉えるのか、そのあたりのバランスを自分でしっかり線引きすべきときが来ているのかもと感じています。
アウトプットとインプットのバランスは難しいけれど、アウトプットとインプットの間にある中二階的な踊り場の部分がすっぽり抜けてしまっている感じがして、それをうまく取り戻せたらなと思っています。