八岐大蛇(ヤマタノオロチ)ゆかりの尾留大明神を訪ねた。
事前に調べた限りで、おおまかな位置しかわからなかったため、目星をつけて歩くことにする。
夏の田園を探し歩く
ネットで調べた尾留大明神の案内地図に「子安観音」で有名な長谷寺があり、その付近に駐車した。
出雲観音霊場8番札所となる興福山「長谷寺」。
本尊の十一面観音立像は、県の有形文化財に指定され、寺伝には、琵琶湖の浮木をもって鎌倉時代初期に作られ、大和、鎌倉、出雲の三長谷寺に安置されたものと記されています。また、古来より「子安観音」として知られ安産、子授けを祈る人々に信仰されています。
この子安観音を拠点にして、そこから探し歩いてみる。
あたりを見渡しても、それらしき神社はない。
ちょうど近くを歩いていた80代くらいのおじいさんに道を訪ねてみた。
とても熱心に教えてくれるのだが、訛りがあって半分ぐらい聞き取れない。
奥出雲の方言は東北弁のようにズーズー弁だと聞いたことがあったが、たしかにそんな印象だった。
なんとなくあっちだろう、というのはわかったので、お礼をいって立ち去ろうとしたが、丁寧に繰り返し教えてくれるので申し訳ない気持ちになる。
田んぼがひろがる米どころ
さらに1キロほど道を歩くと、河岸段丘を利用した広大な農地が見えてきた。
先がかすむほど広い田んぼの真ん中で、おじいさんがひとり肥料をやっている。
離れた場所から「尾留大明神ってどのあたりですか~?」と大声で聞いてみた。
すると、これまた半分ぐらい方言のせいでわからなかったが、どうやら道を上に上がっては下りていくようだ。
説明のややこしい場所らしい。
立ち去ろうとすると何度も説明してくれるので、がんばってヒアリングをした。
「どこから来たのか」と聞かれたので、「愛媛からだ」と答えると、とてもビックリされて「それはご苦労様なことです」と声をかけてもらった。
地元の人からしたら、村のなんでもない神社の跡地を訪ねて四国からやって来るというのは、不思議なことなのだろう。
御代神社を参拝
おじいさんの指先の方向に従って、さらに1キロほど歩くと御代神社の前に着いた。
ここは出雲風土記にも登場する式内社。
尾留大明神→新宮→御代神社
由緒書の看板によると尾留大明神の新々宮だという。
尾留大明神はもともと斐伊川の川岸の畑一帯にあった。
しかし、斐伊川は暴れ川であり、ある年の洪水の影響で現在尾留大明神のある丘に遷宮。
さらに大正の頃、こちらの御代神社の場所に移されたらしい。
ヤマタノオロチとは治水に悩まされた斐伊川のことだとする説もあるのもうなずける。
御代神社の本殿後ろがまたとても素敵な空間だった。
石の祠が九州でみた神社の境内に似ていた。
また2本の御神木を荒神社として祀られていたのが印象的だった。
案内板によると御代神社から西に500mほどで尾留大明神だという。
広い田園では、あちらから草刈機の音が聞こえ、こちらではおばあさんが鍬をふるっているなど、たいへんのどかな光景が広がる。
尾留大明神旧社地に到着
尾留大明神(おとめだいみょうじん)旧社地(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の発祥地)
八塩折(やしおり)の酒(さけ)に酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、この御立薮(おたてやぶ)で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名づけて天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。
この御立薮(現在は畑地)は須佐之男命と稲田姫を尾留大明神(おとめだいみょうじん)と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延亨元年(1744)約200メートル南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治4年に御代(みしろ)神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代神社(南方500メートル)となっている。
境内の由緒書より
ここから北に200mの畑地が八岐大蛇の尾を留めた場所。
北西を見ると、酔ったヤマタノオロチが枕にしたとされる、草枕山も見えていた。
自分も、これからのひかりとなる宝剣をいただけたかもと感謝しつつ、道を引き返した。
駐車地での再会
車を停めた長谷寺まで引き返し、お参りを済ませて帰ろうとすると、1人目のおじいさんが道の上の家から「わかりました?」と声をかけてくれた。
ご家族と縁側で団らん中のご様子。
こういう旅のふれあいは何ものにも変えられないもので、胸が温かくなった。