聖地と聖地を結ぶと出来るというレイラインについてどこまで信じるかは判断が難しいところだが、神社巡りをしていると地図を見ながらついつい神社と別の神社を直線で結んでみたりなどして遊んでしまう。
古代出雲の聖地・吉栗山
2010年代前半のフィールドワークになっていた須佐神社とその周辺地域の歴史や民俗を調べるという流れの中で、国土地理院の地図を広げて旧佐田町全体を見渡したとき、須佐神社から北西に直線を伸ばした先にあるのが「吉栗の郷」だった。
出雲市飯の原農村公園・吉栗の郷は、地域のコミュニティ交流の拠点となっており水遊びができる「カヌーの里」、羊を飼育する「羊の里」、牧羊した羊肉が名物の「食事の里」の3つで構成されている。
そして、『吉栗』の地名を聞いて思い出されるのは「出雲風土記」にもその名を残す吉栗山である。施設の背後にそびえる吉栗山は杵築大社(きづきたいしゃ)、つまり現代の出雲大社の遷宮に際して、材木を切り出した聖なる山であり、伊勢神宮で例えれば内宮の南に広がる神路山と同じような役割を果たしていたと考えられる。
2013年(平成25年)の「出雲大社平成の大遷宮」では、古代に倣って、諏訪大社の御柱祭の如くこの地から出雲大社まで造営材を運び出した道のりを辿る行事も開催された。現在、公園内には御柱3本のモニュメントが設置されている。
須佐之男命が自ら魂を鎮め置いたと伝わる須佐神社から北西の位置に当たるこの地域からは、別の角度からも私に伏線が与えられていた。
須佐神社や佐田町原田の山奥にある岩屋寺跡について調べ始めた頃、佐田町・佐田町教育委員会「佐田町の民俗文化遺産」(1982年)を入手。岩屋寺跡で祀られていた伝承を持つ仏像は麓の集落の御堂に安置されていたはずが、調べていくうちに昭和になって神西湖周辺の寺院に移されて以来、今では散逸して行方が知れないままとなっている。
ちょうどこの経緯について地元の図書館や公民館、郷土史家などに照会した折、書物の中で気になった三所神社跡についても問い合わせていた。
三所神社跡の基本情報
三所神社跡について「佐田町の民俗文化遺産」によると、
飯の原梅木谷の奥にある。雲陽誌には「栗原という所に本社あり延宝三年造立棟札あり、祭日九月九日なり、本社の後に岩窟有り、一丈八尺四方此辺椎樫の老樹繁茂して、水滴ことごとく陰地なり」とある。紀州の熊野権現を勧請したものだが、石段百以上、各所に清水がしたたり、ほんとうに幽邃(ゆうすい)で神霊の座にふさわしい神域である。今は岩窟内に記念柱があるだけである。
と説明があり、1枚の写真が印刷されていた。
また、巻末の索引では、
三所神社跡|飯の原|秦野清光宅(鍛冶屋)上み300m山腹
とある。
この情報を頼りにGoogleマップをはじめネット検索をしてみたものの、旧佐田町の伊秩城址付近に三所神社という名の神社は見えるものの、目的の情報はまったく引っかからない。
この手の地元の文献を調べるとき、小字名や屋号が出てくるとまず太刀打ちできない。
どうやって探っていけば良いか困っていたとき、ふと思いついて「飯の原」をキーワードにヒットしたのが出雲市飯の原農村公園・吉栗の郷だった。
現在、集落内にある三所神社は、探している三所神社跡から遷座した里宮ではないだろうか。参拝の便を考えて、もともと山頂や山腹に祀っていた神社を麓に下ろすという例は枚挙に暇がないからである。
これまで調べた情報をまとめた上で、吉栗の郷に電話で問い合わせてみると、施設の管理者らしき方が丁寧に応対をしてくれた結果、次のような事実が明らかになった。
- 三所神社跡と岩窟は今も公園の背後の吉栗山中腹にあること
- 数十年前に集落にある三所神社に遷宮したこと
- 今では訪れる人はいないが、現在でも神社跡まではたどり着けるだろうこと
- 公園から軽トラも通れるような道をしばらく登っていき、往時は登り口から神社跡まで石段を5分ほど登った場所だったこと
- 現地まで訪問してくれれば、登り口までなら案内できること
2018年4月24日、当日の朝、ふと思い立って出雲に出かけることにした。