随分と前、スピリチュアル的な視点を使ったカウンセリングをしていたことがある。
スピリチュアルなカウンセリングで行われること
当時、あまり後先を考えずに始めたこともあり、どのような相談がやって来るかは、気にせずにスタートした。
前世について知りたい人、最近亡くなった家族の思いについて確かめたい人など、スピリチュアルな質問が多いのが意外だった。
性格や生き方、仕事やプライベートの悩みというのはなぜか、私のところにはあまりやって来なかった。
その瞬間にあらゆる時空が交差する場で
スピリチュアル的なカウンセリングは、リアルな相談相手との会話によって思考や感情の交通整理をしながら、現実と見えない世界を行ったり来たりして必要な情報を手元に集めていき、なおかつ生身の相談相手や関わりのある現実の人、向こうの世界の人に対してヒーリングも役割も同時進行でフォローしながら進めていく。
相談時間の間は、一人何役も同時に、そして瞬時に入れ替わりながらスイッチを入れては変えてを繰り返すため、例え1時間であっても数時間集中しきったように心身が疲労する。
目の前の現実的な問いはあくまできっかけであって、そこから派生していく処理すべき課題は網の目のように絡まっている状態で、それをひとつずつ解きほぐしながらケアしていかなければならない。
スピリチュアルで大事な2つのこと
自分の意識が複数に分化していくような感覚の下、カウンセリングをしていて、常にあらゆる対処のベースに持っていたことがふたつあった。
ひとつは、あらゆるものを客観的に突き放して見ること。
ふたつは、現実は現実でしか解決できないこと。
相談相手には、この2つのポイントについて、直截的な言葉を使うことなく、カウンセリングの最中、対処していく中で言語・非言語を問わず伝わるように心を砕いていた。
このふたつのポイントは、スピリチュアルカウンセリングだけでなく、見えない世界を扱うときに欠かせない土台となる視点だと思っている。
1.あらゆるものを客観的に突き放して見ること
私たちは、自分を取り巻く人間関係はもちろん、あらゆるつながりを突き放して、あらゆる角度から客観的に厳しく直視する姿勢が必要だ。
それは対象が肉親であろうと好きな相手、嫌いな相手であろう、そして自分自身であろうと変わらない。
自分の頭の上方に、もうひとりの自分が見下ろして見ている、監督のような視点が魂の成長には不可欠なのだ。
禅における「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」「父母に逢うては父母を殺し」といった達観すべき境地を引用するまでもなく、あらゆる権威や常識や、情というものを否定し尽くした先にスピリチュアルの真髄が隠されていると思う。
2.現実は現実でしか解決できないこと
また、現実をスピリチュアルで短絡的に解決しようとする人は、見えない世界への畏敬を持って真摯に生き抜くという、現実と幻想の淡いから生まれる真理から最も遠いと言わざるを得ない。
スピリチュアルや占いといった、本来現実から最も離れたものであるはずのものに依存し、すがり、魔法のように解決を望むといった依頼心は、何としてでも振り捨てるべきである。
見えない世界から現実に戻れない人たち
これまでの拙い経験から断言できることは、見えない世界にのみ生きる人、そうした非現実的な枠組みの中でしか物事が見えない人は、近道なようでいて遠回りを自ら選んでいるのであり、もっと言えば、そのような地に足の付かない動きばかりをしていても、決してこれぞという目的地にはたどり着かないであろう。
それよりも、スピリチュアルなど興味がない、占いなど信じない、と言って、ただ現実を現実として捉えて、その中でひたむきに生き抜こうとしていく人間のほうが、極めて見えない世界が導く絶妙な光を手にすることができるのではないか。
現実を生きる尊さ
曲がりなりにも短期間とはいえ、スピリチュアルなどという怪しい世界に専業で身を置いていた私は、好むと好まざると、同じ世界で大した根拠もなく大金を稼いでいたり、リピーターになるように仕向けるようなかたちで活動していたり、知らずとも良かった体験や噂話にいくつも接してきた。
その一方で、ただ自分の足元を淡々と見つめて、現実で進むべき道を切り開きながら、結果として自然への尊敬であったり、身近な人たちへの愛であったりを通して、清廉な人柄となっている先達も少なくない。
現世に放り込まれた孤独ということ
物心付いてから見えない世界と遊んできた私ではあるが、一番身近で、最も承認を求めた家族にさえ、どれだけ伝えても理解してもらえなかったという事実は消え去ることがない。そのため、こうした世界を扱うことに対する悲しみと諦めとを抱えながら今も生きている。
こどもはやがて見えない世界から離れていく
例えば、友人知人にこどもが生まれる度に、赤ちゃんの頃から遊んだり仲良くしたりするこどもさんがいるとして、乳幼児の間はあれほどテレパシーでも使えるのだろうかと不思議なくらいこどもは言葉なしでも心と心で触れ合えたり、コミュニケーションを取れたり、なんともいえない幸福感を醸し出してくれる。
しかし、やがて成長して知恵が付いてくる7、8歳になると、何も言わなくても不調な時だけそっと近寄ってきて遊んでくれたり、隣にいるだけで言葉もなにもなしで会話をしたりといった、非現実的なやりとりが薄れていって、やがて私はまたひとりになってしまう。
見えない世界から見える世界へ何人も送り出して
こうした誰にも説明のしようのない孤独感を生まれたときから何度も感じてきた私は、どれだけ生まれた時点から時間が過ぎ去ろうと、つまり年齢が上がるに上がっていこうと、ただ生誕したことによってのみ現れ出たスティグマのようなものを、魂にぽかんと開いた落とし穴のようなものを、何をもってしてもいまだに埋めることができない。
そして、現実は現実でしか解決できないという、この世ではあまりに当たり前な真理を徹底して押し広げるためには、私が生まれたときから行い続けてきたように、あらゆるものを一度突き放し、否定する姿勢、自分の持つ見えない世界に関する感覚や経験すら、すべてひとつひとつ根底から疑い尽くしていくようなぎりぎりのせめぎ合いにこそ、人が見い出すべきたおやかな世界が見えてくるのではないかと、これからも自分に言い聞かせるだけだ。