東須佐を歩く(12)吉栗の郷と三所神社跡〈後篇〉

その日、早朝松山を出発して吉栗の郷に到着したのが11時過ぎだった。

島根県に入ったあたりから雨が強くなり、次第に本降りになったものの、今日を逃すと次またいつ三所神社跡にチャレンジできるかわからなかったので、とにかく現地に急いだ。

吉栗の郷に到着

途中の休憩場所から吉栗の郷に電話をすると前回詳しく情報を教えていただいた方が出られて、午前中なら在席しているという。

なんとか昼までにたどり着いてポンチョにトレッキングシューズなど雨対策込みの格好に着替えてから事務所に挨拶した。

管理者の男性の話によると、この場所から現地までそれほど時間がかかる道のりではないようだ。

公園の管理事務所であるここから15分ちょっとではないかとのことだった。

戻ってきたらもう一度顔を出す旨を伝えてから、本格的に降り続ける雨のなか吉栗山へと入っていった。

いよいよ山中へ

管理事務所から裏手の集落の狭い簡易舗装の道を上っていく。

屋根を過ぎてゆるやかに蛇行するカーブを進んでいくと、害獣除けのゲートがあった。

少し登ると、山道は山裾の木立に囲まれた。

全身に当たる雨粒の強さが、少しだけ和らいだ。

本格的な山道に差し掛かり、カーブが大きく左に曲がったあたり、気になる地点までやって来た。

いよいよ谷を登っていく

右手をよく見ると大きな谷になっている。

少し覗いてみると、崩れかかってはいたが、山道から谷に向かって二、三段上がれるようになっていた。

そこから谷の上方を見上げると、辺り一面、両肩くらいの高さがある熊笹や雑木が広がっていた。

しかし、ふと地面を見れば石段の名残のようなものが上方まで続いている。

以前、管理事務所の責任者から聞いた、山道から神社までは石段がずっと続いている、という情報と合致していた。

とにかくこの谷を真っ直ぐ上へ登ってみよう。

大雨の降る中、びしょびしょになりながら、熊笹やら雑木やらを手で押さえたり、よけたりしながら一歩ずつ登っていく。

谷の突き当たりまで到着

足元が悪く、何度も滑りそうになりながら谷を格闘しておよそ20分。

ずぶ濡れになってようやく見上げた先、木立の向こうに岩肌が見えてきた。

神社跡らしき基礎部分も露出していて、かつて洞窟の前に三所神社の社殿が建っていたことがわかる。

すぐそばには、表面に「合祀五十周年 遷座十周年 記念参道改修工事」、裏面に「昭和三十五年十月二十七日施工」と自然石に刻まれた石碑もあった。

神社跡の遺構の後ろに、立派な洞窟が待ち受けていた。

ついに三所神社跡と遭遇

資料の写真にあった通り、洞窟内に「三所神社跡地」の石碑があった。

数年来の念願だったこの場所にようやくたどり着けた、という喜びと安堵感が胸に広がる。

洞窟内はゴミや動物の糞などもなくきれいだった。

心配していた獣やコウモリなどの類いもいない。

2つの石碑でつながった情報

この石碑はずいぶん新しく見えるが、「昭和五十二年十月三十日 旧窪田小学校跡へ移転」と刻まれており、建立からすでに約40年以上経っていた。

神社跡の遺構で見かけた自然石の石碑と合わせて考察してみる。

先程、管理事務所で70代くらいの女性のスタッフの方にこれから神社跡まで訪ねていくと話をすると、

「三所神社は今は集落にあるが、子どもの頃、昭和三十年代までは年に1回ぐらいお祭りをしていて、その時だけ村の人たちみんなでお参りに行っていた」

と話してくれた。

また、以前の管理事務所の責任者の方の情報でも、

「昭和三十年過ぎに神社は麓に遷したが、その後しばらくは三所権現のほうでもお祭りをしていた。やがて、参拝の便が悪くなって数十年前にすべて山の麓に下ろした」

と教えてくれていた。

実際に現地の2つの石碑を確認して、前もって収集していた情報の裏付けができた。

つまり、里宮ができた後も、村人から三所権現の記憶が薄れなかった20年程は、里宮に対して奥宮という形で祭祀を続けていたことがわかる。

しかし、やがて山の中に三所権現が少しずつ溶け込むように忘れ去れていこうとしたとき、完全に祭神を麓の三所神社に遷して、この聖地にひとつのピリオドを打った、というわけだ。

洞窟に包まれながら雨宿り

洞窟の奥行きは数メートルだったが、古代人が雨風をしのいだり、修行に使ったりするのには十分な広さだったろう。

しばらく洞窟の中から外の景色を見つめていると、優しい岩肌に全身を包まれるような安心感を覚えた。

10分ほど休憩して、降り止まぬ雨の中、今来た山道を下りていった。

失われる記憶を求める神社巡り

こうして、山中に忘れさられていく名所旧跡、神社や祠の類いは、枚挙に暇がないのだろう。

この三所権現も全国のそんな例のたったひとつに過ぎない。

失われていく郷土の歴史そして記憶は、時の流れと共に抗いようのないものではあるが、こうした痕跡を求めてしまう性も、私の神社巡りの特徴の一角を形作っている。