「値切るなんてわがままだ」と言われて。ルールや常識の輪郭はどこにあるのか

大人になるとは世間の広がりを徐々に認知していくことといえるかもしれない。

いや、広がりと言うよりは世界を立体視出来る能力を開発するのが教育であり大人への成長過程といえるだろう。

子供の目、大人の目

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子供の目から見える世界は二次元的で平板かつ色彩の乏しいことが多い。

大人になるのに世間の厳しさを知る必要はないが、世界の奥行感を掴むこと、そして光と闇が分かれているようで実は一つあること、それがこの時空の中心にある。

自分の夢や希望が砂のような世界に埋もれていく。

そんな諦めを時に感じることもある。

だが、ふと人生の究極の目的は10代までに培われた常識、教育、理性的、合理的という得体の知れないゴーストを客体化して一つずつしらみつぶしに消していくことにあると思えば、少しは気が楽になる。

子供の時分に心の中でぷかぷか浮いていた思いや感覚というのは十中八九正しいものだと私は思う。

大人への復讐

人間の根底で大人に、親や社会に対する怨みや子供に対するひがみがあるのだとすれば、幼き日々の復讐を相手を取り違えてやりのけているのに他ならない。

私たちには両親や教師がこの世から消えようと自分の中にありありと存在する大人は決して消えない。

むしろ年を追うに連れてリアルさが増すばかりである。

子供時代に大人から受けた仕打ちを家庭や仕事の人間関係で無意識に解消しようとしてはいないか。

愛して止まないと常に思い込んでいる子供たちに対して、気づけばそうした怨みを教育的かつ合理的という包装紙に包んで押しつけようとしてはいないか。

一瞬一瞬の自省こそ大人にとって最も大切な日々の営みともいえよう。

壊せないルール

最近、通常は受け付けていないはずのサービスに応えてもらった体験を立て続けに得た。

会社でもいい。

組織でもいい。

学校でも家庭でもいい。

私たちは常に、実体のないはずのものを勝手な幻想で実体のあるものとして思い込んで過ごしている。

会社での過ごし方。

職場での人間関係のやり過ごし方。

合理的でないことを理屈を付けて公式見解としたり、後ろめたい気持ちなど疾うに忘れて「これがルールだから」と利益にならぬこと、面倒なことを避けようとする。

もちろん、そうした場所ごとの手触りを感じることは社会や他者との距離感を測る大切な感性であろう。

どのようなオープンな場所にも目に見えないバリアのようなルールに支配されており、それで秩序が保たれている面もあるからだ。

しかし問題は、年齢を重ねるごとにそうしたバリアが当然のこととして、自明の歴史として動かしようのない実態だと思い込んでしまうことだ。

そして、本来はたった1しかないはずのルールを10にも100にも大きくして見てしまう。

その場所のルールを何倍にも拡大解釈してマイナスに幻想を描いてしまっているのは案外自分なのかもしれない。

自分で自分を縛る

子象のうちに鎖でつながれてどこにも逃げ出せないと諦めた象は大人になってすぐに切れる縄でつながれても大人しくしているという。

日本ならそれはとくに義務教育であり、なかでも小学校の6年間の影響は人間にとっての屠殺場にも近い。

Elephant Trio

大きな組織だから、大きな会社だから、大きなお店だから。

必要以上にそうした場所は堅固なルールで支配されていて融通を許さないと思い込まされて来た。

その原点の一つが自ら考えないという義務を教える初等教育である。

自分の夢の実現や目標達成、自己の成長よりも平凡な1日が保たれることが最優先される世界。

そして、個性を殺すことで教室の、学年の、学校の、地域社会の何事も起きないという均衡が保たれて、教員の扱いやすさが増大する。

子供たちは教員の顔色を通して、反対に自分たちのいる教室を代理的に支配するのだ。

それは子供が集まっているだけの平面的な壁画に過ぎない。しかも誰も見向きのしないビルの狹閒に描かれた壁画である。

値切らなくなった現代

ふと思い出したのが子供の時分、同居していた祖父母と買い物に行くとよく店頭で値切り交渉をしていたことだった。

商店街や個人商店はもちろんスーパーや家電量販店でもよく値切っている姿を見かけた。

実際、そうした様子に影響されて社会に出てしばらく経つまでは自分もその場所のルールや何となく身につけた常識に関係なく値切る子供だった。

ここで大切なのは値切って実際に負けてもらったかどうかではない。

良い商品を自分が少しでも安く手に入れようとする前向きな姿勢をこだまのように実感できるのが大人ならではの遊びのように思えた価格交渉だった。

商品を安く買うためのテクニックをもっと広げて捉えると自分の夢を実現させるためにあらゆる手段を使って世の中と交渉するということにつながる。

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これが常識だと思い込んだ世界を良しとするのなら、店頭で値切る必要もなければルールが明示されている場所で何とか自分の欲するサービスを引き出せないか話を持ちかける必要もない。

そこでネックとなるのは日本人らしい恥ずかしさではなくて、自分の中の幻想の常識であると思う。

どうしてもラインを引かなくてはいけないことはもちろんある。

しかし、いくつかの組織で働いたこともある私だが、意外に顧客や利用者からどうしてもとお願いされると何とか答えられないか思案することが多かった。

もし完全に叶えてあげられないにしても、妥協点を見いだして納得してもらうこともあった。

本来ならそんなルールも常識もその組織にはないはずである。

人それぞれの裁量や融通の利かせ方といった個々の問題を超えて、思わぬ嬉しい対応が得られることも多いものだ。

もちろん一つ間違えると「無理を通せば道理が引っ込む」といった自分勝手でわがままを押し通した方が勝ちという損得計算の話になってしまう恐れは十分にある。

刷り込まれた『協調性』

それでも子供の頃に周りの大人から何度も聞いたフレーズがいま耳にこだまする。

「勝手なことを言わない」

「それはわがままです」

こうしたその場で何事も起きずに子供の思いの芽を摘んできたのがある種、教育の現場の実態ではないだろうか。

たいろうのまとめ

自分の夢のために手に入れたいサービスを引き出すことを考え始めたところ、話は思わぬ教育という人間の原点に関わるテーマが顔を出してしまった。

場所や人といった他者との距離感への適切な頃合い。

それは往々にして自分勝手でもわがままでもなかったんだと、心の奥底で今もうなだれている小さな子供の私へ声を掛けてやりたい。

eyecatch photo Detlef Reichardt by on flickr