2014年9月8日、今年初めてお遍路の区切り打ちに高知県へ出掛けた模様である。
高知県西部、高岡郡四万十町にて、岩本寺ゆかりの神社を訪れた。
時間の堆積が漏れ出る高岡神社の杜
岩本寺から窪川駅のある旧市街地を抜けて小さな峠を越すと高岡神社の社叢が見えてくる。
四万十川に架かる橋を渡って神社へ続く一本道を進むと駐車場があった。
車を降りて神社を見遣ると鎮守の森が物言いたげに迫ってきた。
焚き火の煙が一筋、秋空へ向かって伸びている。
やがて夕日が山の辺からこちらを誘うように射してきた。
仁井田五社のうち中ノ宮
参道の突き当りに中ノ宮があった。
地元の抜け道があるのかのんびりした景色のわりに速度を上げた車がやってきて落ち着かない。
鳥居をくぐると境内には白石が敷かれていて、清めになっている。
手水場に近寄ると傍らに確固として屹立する石碑があった。
「元三十七番札所福円満寺の跡」
まるで十字架のように力強く、この裏山をしっかりと封印しているように思えた。
今回の神社巡りでたどり着くべき場所がここだったのだと直観した。
この石碑の前で線香を手向け、しばし手を合わせた。
移り変わる札所と仁井田五社の歴史
高岡神社には丘を取り巻くように神社が五社並んでいる。
東南へ3キロほどのところにある第37番札所岩本寺はもともと高岡神社にあった。
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
現在の社名は明治の神仏分離後に改名されたもので、それまで神仏混淆の聖地、仁井田大明神または仁井田五社と称していた。
行基が開基とされているが実際のところはどうだろうか。
陰陽道などと関わるのかもしれないが北斗七星にあやかって封印する意図だったようで、この地に7ヶ寺を建立する。
その後、空海が巡錫の折、五社五寺としてそれぞれの寺に本尊を据えた。
仁井田五社の構成
高岡神社は大変貴重なことに、今なお五社構成で祀られている。
真ん中の中ノ宮を正面に見て、一番右側から
1)東大宮(一の宮) 大日本根子彦太迩尊=不動明王
2)今大神宮、今宮(二の宮) 磯城細姫命=観世音菩薩
3)中ノ宮(三の宮) 大山祇命、吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来
4)今宮(四の宮) 伊予二名洲小千命=薬師如来
5)森ノ宮(五の宮・聖宮) 伊予天狭貫尊=地蔵菩薩
である。
最後の森の宮は、丘の一番左側にあり、唯一、見上げるような石段を上がる仕組みとなっている。
流転する札所
神社の別当寺だった福円満寺が兵火や住職の居ない状態が続くなど、紆余曲折を経て明治年間に今の岩本寺へ落ち着いた。
明治に入るまで、お遍路は仁井田大明神の中の宮に札を納めた後、岩本寺で納経した。
神仏分離によって札所である岩本寺の根源が高岡神社であったことが次第に忘れられていき、寺院でないことも重なって番外札所や別格霊場としても顧みられることなく一鎮守の杜として時を過ごしている。
仁井田五社というだけあって高岡神社には5つの神社で成り立っている。
伝承によると、伊予の豪族河野氏の祖先にあたる越智(小千)玉澄が親族間の争いによって土佐国浦戸湾の御畳瀬(みませ。現在の桂浜周辺)に船で到着した。
その後、この四万十町辺りまでやってきて、土地の豪族と仲良くなり共に土地を開墾して住み着いた。
そのとき、祖先神を祀ったのが由来らしい。
戦国時代までは3年に一度、御畳瀬と仁井田大明神の間を御輿を乗せた船で行き来する船戸御が行われていた。
伊予の祖神・越智氏との関わり
今でも高岡神社の祭神は越智氏に所縁の神々となっている。
・大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
・磯城細媛命(孝霊天皇后)
・大山祇命
・吉備津彦狭島命
・伊予洲天狭貫命
・二名洲小千命
越智玉澄は新田開発の守護神とされているそうだが、古代の征服の歴史が隠されているようでもあり、さらに小千氏をたどっていくと欠史八代の孝霊天皇となるのも妙に引っかかった。
コメント