筋が通るということ、街の時間が止まるということ。

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コロナ禍1年目は日本で暮らしていて良かったと思っていたけれど、3年目になるとヨーロッパやアメリカのほうが、一本筋が通ってる感じで、単純にうらやましい。

合理的というのはどこまでもドライな面があるものの、そうであっても大多数が承服できやすい、鬱屈を無理矢理溜めない、というメリットがあるように思う。

コロナとどこまでも一緒に生きていく

愛媛県にまん延防止が出てないままというのは、単に感染状況とともに日常を生きることにした、と言うことに過ぎないのだろうか。

まだ私たちは、その渦中にいるに過ぎない。

県政的に、あるいは政治や行政として、緊急事態でも非常時でもないって言う事はつまり単なる日常なのだろうか。

とはいっても感染はまだ続いていると言う、よくわからないのが、今いる地点なのだろう。

県独自の感染対策レベルっていうのは当然今マックスになっている状態だ。

全国的にまん延防止が出ている状況と比較して、法律的にどういう兼ね合いなのかが全くわからないままでいる。

まん延防止措置なき街で

まん延防止措置が出てない県都。

その大通りがガラガラなのを目にすると、「とても空いてて走りやすい!」「事故の心配がなくて安心!」という風に、気持ちを切り替えられるようになった。

以前は「こんなに街がガラガラで先行き大丈夫なんだろうか」などと不安になってたけれど。

ちょっと感覚が麻痺して変に笑いに入ってしまっている感じもなくは無い。

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