道後温泉のまちに生まれた伊予猿として(1)道後で明けて道後で暮れる

道後温泉の伊予猿

松山市に生まれ育った私が世間に申し訳ない気持ちで誇れるものとすれば道後温泉しかないのかもしれない。

俄(にわか)な〈坂の上の雲〉

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家の窓からはいつも松山城が見えて街のシンボルではあるけれど、おそらく大半の観光客が一番の目当てとして松山にやってくるのはジブリの映画からなのか、温泉情緒を味わいたいからなのか、道後の出で湯に浸かることではないだろうか。

たしかに、最近では坂の上の雲も観光の目玉にしようと意気込んでいるわが町であるが、正岡子規はいざ知らず地元の人であっても秋山兄弟などはついこのあいだマスメディアからの逆輸入によって認知されるようになった郷土の偉人である。

いま、松山の街頭で「桜井忠温や水野広徳を知っていますか」と聞いても若干名しか確かな反応が返ってこないだろうと予測されるのと同じぐらい、十数年前までは松山でも秋山好古・真之兄弟すら知られていなかった。

昭和60年代前半、小学校高学年の頃に梅の名所で知られる梅津寺(ばいしんじ。松山市北西部の地名)について祖父と話していた際、「梅津寺の小高い丘に秋山大将の銅像が立っているのを知っているか。日露戦争で活躍した松山出身の人物だ」という話題になって、そんな人がいたのか、でも日露戦争なんて正露丸ぐらいのイメージしかないし、と聞き流していたが、父母に聞いても全くピンときていなかったので世間もそんなものだったろう。

漱石とステルスマーケティング

江戸っ子の漱石が「坊ちゃん」を書いてくれたおかげで松山に一大ステルスマーケティングの恩恵をもたらしてくれたその水脈がだんだん途切れそうになった頃にこれまた大阪を拠点に歴史小説で一代をなした司馬遼太郎によって、さらに東京発信のアニメ映画の巨匠によって、新たなネームバリューが松山に付け加えられた。

いわゆる都鄙意識というものは司馬遼太郎の作品にも提示される地方にとっての大きなテーマと言えるが、振り返ってみても日本史の教科書にわずかに3人名前の刻まれる愛媛の偉人ですら生涯地元で活躍したというような人物はいなくて、一遍は鎌倉を中心に全国を行脚し、子規は早く東京に行きたいといって上京したままであり、大江も大瀬の郷から大学に進学してからはついぞ地元で生活することはないのであって、流動化の時代が近いこれからはわからないにせよ、「竹乃里歌」で子規が「四国の猿の小猿」と自虐したと云って名をなすような人物にとってこの国は間尺が狭すぎるのかもしれない。

思い立って愛媛も含めて四国を客観的に考えるきっかけとして、四国四県の人口は400万人と日本全体のたった3%に過ぎず、何本橋が架かっても島のまた島で四方を海に囲まれているというそこはかとない諦観が拭えないのである。

いよいよ始まる道後オンセナートと松山人

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愛媛にせよ松山にせよこれを目当てにおおよその人たちが今後も一貫して興味を抱いてくれるだろうという事物は、全国に名前の通った社寺があるわけでなく、うどん屋に大挙として観光客が押し寄せる隣県の真似をして市内に柑橘専門店を乱立させるわけにもいかず、坂の上の雲はやはり戦記物だというイメージはついてまわるとなると、ここはすべからくその大任を道後温泉本館に委ねるほかない気がする。

奇しくも今年、2014年は明治27年、道後温泉本館のうち神の湯本館が竣工して120年になるため、ローカルレベルでも注目をされている。

突如として本館建設の立役者となった伊佐庭如矢が引っ張り出されてきたり、アートで道後を盛大に彩ろうとする芸術イベント・オンセナートが開催されたりと賑やかな雰囲気の中であるが、一方で当初、住民の大半は道後温泉本館の建設(正確には改築)に大反対であったという。

ただ、いまでは道後温泉本館のおかげで糊口を凌ぐわれわれであればこそ、なぜ今となっては松山になくてはならない感恩の建物を明治の松山人はぎりぎりまで建設に不承知であったのか、その事実を知るべきかと思う。

こうした経緯によってわずかながら私にとっての道後温泉とその歴史を追っていきたい。

(つづく)

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