道後温泉のまちに生まれた伊予猿として(5)奥道後の黄昏

道後温泉の伊予猿
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2014年1月、ホテル奥道後のジャングル風呂がいよいよ半年間の長い改修工事に入った。

改修といっても完全なリニューアルとなる予定で昭和の匂いを色濃く残した郷愁の温泉がまた一つ姿を消して新しく生まれ変わることとなる。

この記事の情報は2015年11月現在

昭和は遠くなりにけり

 

 

 

 

 

 

 

 

photo reference:@nifty温泉

ジャングル風呂は昭和そのものといってよい。

昭和が輝いていたあの頃の名残をあちらこちらで漂わせていた。

松山市内から水が峠を抜けて今治へと続く国道沿いに突如現れるのがホテル奥道後である。

建物を見た瞬間、その年季の入った姿は母性的なものさえ感じさせる。

上り坂の国道の両端を切り通しのようにホテルが形成されており、付近には遊園地も併設されていた。

昭和のシンボルとして

奥道後が掻き立てる郷愁をどう伝えればいいのだろう。

九州でいえば別府ラクテンチや惜しくもなくなってしまった宮崎のサボテンハーブ園といったところだろうか。また、別の意味で怖いとされた愛媛で唯一奇跡的に存在したいわゆる遊園地・梅津寺パークのようである。

昭和30年代に熱海、40年代に宮崎が新婚旅行の行き先として大ブームとなったあの当時の空気を真空パックで保存しているような佇まいが奥道後には漂っているのだ。

温泉の多数ある愛媛県内でも奥道後の泉質は大変優れているといってよい。さらりとした道後よりもぬるぬる感の強い奥道後のほうが好みの向きも愛媛では多いはずだ。

ジャングル風呂はいわき市のハワイアンセンターのように温室に南洋の植物が植わっていて大小いくつものお風呂が点在していた。

昭和生まれの子供にとってはジャングルという響きだけで十分に魅力的だった。
児童公園を遊具が自動で動く夢の公園だと勘違いしていたように。

閑古鳥もまた愛おし

奥道後について筆者の記憶で最も古いものは幼稚園年長のとき、珍しく父親が私だけを連れて行ってくれた思い出である。

1982年当時、すでに奥道後は一時期の輝きは衰えて子供心にも寂れた印象になっていた。

1963年のオープン当初、かつて、人が押し寄せるほど賑わっていたそうだ。
渓谷沿いに遊歩道が整備された遊園地には金閣寺を模した錦晴殿をはじめ日本庭園が広がっていたし、なんといってもロープウェイで展望台に上がると松山市内が見渡せることができた。
プールもあり劇場もありアスレチックもあった。

営業の仕事をしていた関係で子供のあいだは父親とまともに話したり遊んだりした機会がほとんどなかったため、父から「奥道後で映画を見て、ジャングル風呂に入りにいこう」といわれたときはとても嬉しかったのとどんな風に接したらいいのか心の中でちょっぴりとまどったことを覚えている。

奥道後は映画館もあった。席数で言うと100席近くはあったように思うが、すでに客足もまばらだった奥道後であったので父と私の貸切状態だった。

いまでも忘れられないのが、上映していた映画が007とUボートだったことである。線路を車が走り抜けるシーンで大笑いしたものの、Uボートはひたすら潜水艦内の暗い映像が流れるだけでラストに近くなり海上に浮上して明るいシーンになるまでやけにフラストレーションがたまった。

その次の記憶は小学校1年生のとき、親戚の伯父さんがいとこと一緒に連れていってくれたときである。
ロープウェイで展望台に上がるとそこは寂れまくっていた。たしか冬場の天気の悪い日だったため山頂は風も強く寒くて凍えるように半分壊れかけのインベーダーゲームをやってすぐに次の便で下へ降りた。

日が暮れて帰りに大雨が降る中、昭和の松山でちょっと高級な中華料理といえばここという道後公園そばの天壇で蒸籠で出される牛肉飯を食べて帰った。

子供からすると当時道後はとても遠い場所にあって独特な町の雰囲気からもちょっとした冒険心を抱かせた。

今だからこそ坪内寿夫が気になる

坪内寿夫

奥道後に行ったり話題にでるときは、「むかし、来島どっくの坪内さんっていう人がおって、それはすごかったんよ」と祖父母や両親が話すのを聞いて育ったが、どうすごかったのかはよくわからないままだった。

映画や造船で大きな会社を作った人。

昭和の娯楽をレジャーランドとして田舎の奥道後に誕生させた坪内さんとはいったいどのような経歴を持った人だったのだろうか。

夢は大衆にあり―小説・坪内寿夫

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