関西旅行(2)新しい磐座への道すがら考えたこと

真名井神社のお参りを終えたのが7時前で整体の予約にはまだ時間があります。
前から訪れてみたかったお寺の跡へ向かうことにしました。

真名井神社の変化を引きずりながら

道すがら、先ほどの真名井神社の出来事からあれこれ考えていました。

全国各地に有名な磐座がたくさんあり、昨今のパワースポットブームの中で大勢の参拝客が訪れます。

神社めぐりを長く続けていると、どういうご利益を求めて人々がやって来るのか正直よくわからないのが率直な思いです。

極論すると磐座も単なる石の塊なのでそれを拝んで金運が良くなったり良縁を求めたりするのも不思議な感じがします。

目印がほしいのであれば河原の石ころを拾ってきて神棚にお祀りしたので十分な気もしてきます。

磐座が有る無しに関わらず、その場所を訪れて、そこに堆積された時間や歴史の重みをどれほど感じられるのか。

長い間、連綿とその場所を守り続けてきた地元の人達の思い。

そこに降り注ぐ光。

さまざまに見えないものを感じることができれば、磐座はなくてもいいかもしれませんし、土に還るのもまた磐座の意志かもしれません。

遠くより偲ぶ

日本には古くから「遥拝」の習慣があります。

たとえば伊勢神宮の遥拝所は全国津々浦々にあり、もちろんそこから伊勢神宮が見えるわけではありませんが、人々は頭を下げてお伊勢さんに思いを馳せます。

見えもしない神社を拝んでいる姿は、はたから見れば滑稽とさえ映るかもしれません。

しかし、ただの石の塊を尊んだり、見えもしない遠くの場所に感謝を捧げるということは、見えないものへ畏敬を捧げるというご利益とは無縁のシンプルな行為です。

そして、それこそが、『聞く耳のある者』が心で見つめる、確かな〈現実〉です。