文芸雑感——俳句を中心としてーー[上]その2(1997年)

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以下の文章は、上記のブログ記事のつづき

文芸雑感——俳句を中心としてーー

      上 (その2)

俳句は老人の余技に過ぎないのものか

……かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。

しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打つこむべき芸術と考えうるだろうか。

小説や近代劇と同じように、これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか。

もっともいかなる時世にも人は慰みをもつことを許される。

老人が余暇に菊作りや盆栽に専念し、ときに、品評会のごときを催し、また菊の雑誌を一、二種(三十種は多すぎる)出すのを、誰も咎めようとは思うまい。

現代的意義というようなものを求めさえしなければ、菊作りにはそれとしての苦心も楽しさもある。それを誰も否定はしない。

(中略)しかし、菊作りを芸術ということは躊躇される。

「芸」というが良い。

しいて芸術の名を要求するなれば私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、区別するがよいと思う。

第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。

桑原武夫「第二芸術ーー現代俳句についてーー」『第二芸術』講談社学術文庫

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俳句が「第二芸術」なら小説は果たして「第一芸術」なのだろうか。

子規の革新運動で、芭蕉以来久々に俳句の芸術性が高揚されたとはいえ、哲学や思想的、もしくは社会的要素を表現するにはあまりに短すぎる。

その点はどうしても小説にはかなわない。

しかも俳壇が虚子の、そして『ホトトギス』の天下となってからこちらは、それこそ俳句も「月並」になってしまった、との声もある。

[参照]愛媛新聞社編「俳句のふるさと・松山発 激論 俳句はどうなる〜俳句の現在・過去・未来」
愛媛新聞社(1995)

俳句もまた、世紀末現象か、混沌をきわめているのである。

文芸すべてが地盤沈下していく現代

現代の文学の世界で考えたとき、「第二芸術」の地位に、俳句は何とかすがりつき、小説も(以前が第一芸術だったとすると)もはやその地位にまでおちてしまった。

社会的背景から軽いタッチの小説が好まれ、小説の大半がエッセイあるいは随筆化している。

また様々な自治体がその地方の宣伝の道具にと、ここ十年来の地方文学賞の乱立。その結果、本の帯に「〇〇文学賞受賞作」と銘打たねば出版さえできず、しかし読者は小説を買わないという皮肉。

つまり「ノリ」というコトバに代表されるイメージによって、消費者が購買しているという事実がここでも露呈されている。

芥川賞、直木賞と手同じこと、文学の真田丸、ここもいわゆる最後のとりでになってしまった。これが陥ちれば、大阪城も陥ちる。

[下] へつづく

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