パワースポットという言葉を初めて耳にしたときからそこはかとなく自分のなかで腑に落ちないなにかがありました。
聖地。霊場。神社。教会。寺院。エネルギースポット。ボルテックスポイント。
呼び方はさまざまあれど、パワースポットだけがなぜか耳にすんなり入ってこなかったのです。
パワースポットをひきつける「欲」
それは、パワースポットという語感に「もらえるものはなんでももらってこよう」という欲望めいたものを感じたのでしょう。
それはもちろん、自分の奥底にひそむ「何の努力もなく棚ぼたでなにかが起こってほしい」という依頼心を鏡のように見せられていたのだと思います。
それでも、2005年秋から本格的に神社巡りを初めて7年目。
「疲れたとき、元気になりたいから行く」といったことが減っていき、「じぶんのなかの余分なものをその聖地で出させていただき、それが一瞬にして宇宙を循環してまたじぶんに帰ってくる」という感覚でその場にたたずむようになりました。
『もらう』だけでは行き詰まる
——『もらいにいく』から『出させていただく』。
一見、単にベクトルが反対になっただけのようですが、この視点の切り替わりというのは大きな意識の変化をもたらしたように思います。
この気づきを得るのにたいへんサポートしていただいたのが天橋立の元伊勢籠神社近くにある真名井神社でした。
神社巡りの転換点・真名井神社
私が神社巡りをする場合、たくさんの神社を一つずつしらみつぶしに訪れるというよりは、数カ所、自分にとってキーとなる聖地を何度も訪問するという傾向が強いようです。
それはここ数年の流れであれば京都であり出雲であり伊勢であり、そして天橋立だったというだけのことです。
とりわけ真名井神社は2009年10月に初めて参拝して以来、これまで訪れた回数はこの2年で10回は下らないと思います。
ここは行くごとに、その直近の流れについて修了したことをやさしく告げてくれ、そうして次の流れへとゆるやかに背中を押してくれる、承認スタンプの受付所のような印象がありました。
真名井の地の解放
真名井神社は近年その名が知られるようになってずいぶん訪れるひとが増えたようですが、それでもコンパクトな空間のなかに全宇宙の光の扉が開かれているような神々しさはまったく衰えていないように感じます。
むしろ月日が経つにつれ、ますますそのひかりはかろやかでまばゆく、あざやかです。もちろんそれは、私自身が少しずつこだわりを手放してスッキリしてきたということでもあるでしょう。
しかしながら、丹後というずいぶんずしりとした土を孕むこの場所でさえ、日本の他の聖地と同様、さまざまな縛りから解放されて軽さが見られるようになってきていることと連動しているように感じます。
流行りの言葉でいえばデトックスか
漢方や整体といった東洋医学的視点によると、ずいぶんと『出す』ことを推奨しているように思います。
たとえば、整体の大家として名を馳せた野口晴哉さんの『風邪の効用 (ちくま文庫)』は、日頃たまった体内の毒を季節ごとに風邪というかたちで排泄することによって次の季節に慣れる身体にすると教えています。
「風邪は治すのではなく、経過させるもの」というのは、そういう筋道から導かれたものと思います。
冷え取り健康法を世に広めた進藤義晴さんも著書のなかで、下半身を温めることによってからだの冷えを毒だしというかたちで排出し、心身を整えると唱えていますが、靴下の重ねばきや半身浴、食べすぎないといった三原則の先に、よこしまな心こそ冷えを生み出す最大の原因とおっしゃっています。
怒らず素直に、心を整えることで風邪や瞑眩(好転反応)といった毒だしがさらに後押しされるというわけです。
もちろん西洋医学でもむくみが酷く、たとえば肺水腫といった症状では利尿剤を多く使いますが、からだの奥にひそむものを出すというよりは、水分調整というバランスのなかでのことであって、治療の多くは薬剤を投与して体内に与えつづけるという側面が強いと感じています。
真名井の磐座の声
真名井神社の境内に戻って、ここにいらっしゃる大切な磐座たちが私にずっと伝えつづけてくれていたことは、
——宇宙と自分が一体であるということ。そして、じぶんはその宇宙を点として置く器にすぎないということ。
さらに、その器はプリズムのように宇宙のエネルギーが入ってきては出ていき、風通しよく乱舞するものだ、ということ——
呼吸法で基本に語られる「身体の汚れた空気を出しさせすれば、自然に肺に空気が入ってくる」ということを、回り道しながら一握つかむことができたじぶんの頑迷さを笑いつつ、いま真名井神社のひかりを思い出しています。
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