白高大神の真実|「神と人のはざまに生きる」を読む(1)

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白高大神という心霊スポットの知名度が上がってもうずいぶんと経つようだが、「奈良最恐」や「関西最強」と呼ばれていて、日本屈指の心霊スポットであるのは間違いないだろう。ただ、本当に心霊スポットなのかどうかではなく、なぜ心霊スポットという都市伝説の端切れに若者が引き寄せられるのかという点に興味が湧く。

心霊スポットは現代の「ハレ」の場なのか

怖い物見たさなのか、自信を付けるためなのか、それとも下手な功名心だったり、プライドを満足させるためなのか、それはわからない。心霊スポットという場所があるのは確かであり、それは幽霊や悪霊、悪魔や妖怪といった見えない存在が跋扈するというよりも、人々はその場所に対して、なぜ現代に生まれてしまったのだろう、だとか、早くここから消えてしまいたい、とか、そんなことを投影してしまうのかもしれない。

「死にたい」ではなく「消えてしまいたい」という解離的な自己状態に共感できる人であれば、心霊スポットとは生死を占うものではなくて、あくまで生と死とのはざまの反発によって魂が飛ばされかけてしまっている現代人の最後のよりどころかもしれないし、結局人間のご都合次第で、ある場所はパワースポットになり、ある場所は心霊スポットであるといったように色分けしているに過ぎない。

あるいは、肝試しやこっくりさん、幽霊やおばけといった、子どもにとってはアクチュアルな世界でありながら、大人からすると子ども染みたもの、大人になれば卒業するもの、というはずのジャンルを、二次元あるいは2.5次元の世界が日常化した今、すべてが平板でどこまでいっても凹凸もなく、引っかかりもなく、それでいて、完全にその世界に没入し続ければエネルギーをすべて吸い取られてしまう、といった恐怖は今も昔も変わらない。人間がメンタル的に著しくバランスを崩してしまう一因は、その対象やその場所による影響であるといいながら、結局、本人自身がうまくつかみ続けることのできないエネルギーというものを、そこにある時空の黄昏が触媒となって、自ら放出してしまうからだ。

稲荷と狐と人間と

心霊スポットは本当に怖いといえるものなのだろうか。そこが廃墟であろうとトンネルであろうと、あくまでも現実の世界の中に収まっている、というだけで、私は安心してしまう。2次元や2.5次元のようなすべてがイマジネーションに変換されていく世界。あらゆる想像を目的とする心の飛翔が現実の世界よりもリアリティを与えていく世界。そちらのほうが、とてつもなく不穏で、膨張し続ける現象にピリオドを打てないような諦めを感じてしまう。

白高大神について少し調べれば、伏見稲荷の系統の講が組織されていた場所であった、ということは容易にたどり着く。心霊現象が語られるとき、なぜか神社で登場するのは緋袴の巫女が大半で、男性や、神職の装束を身につけていたという話はあまり聞かないのも面白い。白衣と緋袴の色の組み合わせは稲荷信仰でおなじみの狐、そのお面や置物をイメージさせるわけだが、稲荷神は怖いだとか、祟るだとか、そういう偏った見方が生まれるのも、稲荷信仰の奥深さだといえるだろう。稲荷の狐が祟るとして、稲荷神社を産土神に持つ土地に暮らす人々は、押し並べて不幸な人生を歩むわけではあるまい。

けして捕らえることのできない角度

イメージを紡ぐようにして、内容の方向性や表現の冗長さにあえて抗せずここまで書いてきたのは、心霊スポットはもちろんのこと、白高大神に対して私が抱いている胸のうちでうごめくような感覚をどうにか伝えたいからだ。心霊スポットに限らない話だが、物事には表層だけでなく深層があるし、建物には平屋だけでなくビルであれば2階、3階もあれば高層階もある。私たちは日頃、現実の世界を言葉に寄りかかり過ぎて受けとめているばかりに、縦横斜めと気が狂いそうになるくらい無数の線のようにある対象を見つめるときの角度がある、ということを忘れてしまっている。というよりも、忘れてしまっていると錯覚しているのかもしれないし、そもそも何一つこの感覚でつかめているものなどないのかもしれない。

本来ダークで当たり前の世界

霊能者、ヒーラー、祈祷師などなど、こうした見えない世界を扱う存在が、本当にどこまで私たちの社会で受け入れられているものかは、よくわからない。ただ、有名無名、力の大小などは関係なくそうした直感、霊感、霊能を生かしながら生きてきた、そして生きている人たちがいるものもまた事実である。そして、現代を生きる私たちにとって、天使と悪魔、白魔術と黒魔術のように西洋らしい対立的な世界は少なからず親しみのあるのに対して、祈りに限らず祈祷や占いなどの明るい存在に相対して心霊スポットがあるようにも感じられないし、本来祈りと現世で生きる以上セットであるはずの呪いの存在はどこか欠落しつづけている。

呪いがあって祈りがある特殊な空間

かつて心理学者の中村雅彦が「呪いの研究-拡張する意識と霊性」で、四国の「拝み屋」を通してどこまでもダークすぎる現代の呪術を克明に描いてみせたように、生まれた頃から四国という、エネルギーが没入していく世界に生まれた私にとって、見えない世界は極めてブラックに近いグレーな存在であり続けているし、常に心の奥底が消耗し続けている感覚は消し去れない。

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むしろ、大人になって神社や寺院に明確な興味を抱いて各地を巡礼し始めてから、どうしても「家」だったり「先祖」だったりを調べざるを得ない場面が訪れて、家系を辿ればかつては「拝み屋」の血を引いているという事実に、なぜかほっとした記憶がある。ただ、拝み屋、現在で言えば霊能者や呪術師になるのだろうか、と一口にいっても、専業で宗教的な組織を形成するまでの巨大な存在もあれば、私の家系のケースのように、「日曜拝み屋」「拝み屋で兼業農家」とでもいうような、小さな集落の一員でありながら何かあればお祈りをしたり、御札を頒布したり、薬草で薬を拵えたり、そういう「おばあちゃんの知恵袋」的な拝み屋もあったのである。

拝み屋の薄れゆく記憶

亡くなった祖母から少しだけこういった話を聞いたことがあった。祖母の祖母ぐらいの時代まで、実家の里で拝み屋のようなことをしながら、平素は農業や鉄砲による猟を営んでいたらしい。春、田舎の野山を一緒に歩いていたとき、祖母がふと「♪〜かぎわらび、蕨の恩を忘れたか」と口ずさんだ。子どもの頃、野山に入る前に唱えるように、彼女の祖母から教えてもらったおまじないだという。

蛇やマムシに襲われそうになったとき、かぎわらびが地面から生えてきて串刺しにした、といった民話は全国でいくつか見られるようだが、「もうほとんど忘れてしまった」といいながら、子どもの頃はいくつもの呪文や祈りの言葉を覚えていた、と話していた。

膨張し続ける祈りの場

白高大神というキーワードひとつで、ここまで私たちを牽引してしまう心霊スポットの魅力。虚像と実像がある、という言い方よりも、日常生活ですっかり忘れてしまっている見えない世界への畏敬のような感覚を、するすると引っ張り出していくのが心霊スポットらしい役割であり、死後も白高大神を捉えて放さない存在へと作り上げた中井シゲノや、その半生を客観的で淡々とまとめ上げた一冊の本、今私の手元にあるアンヌ ブッシイ「神と人のはざまに生きる―近代都市の女性巫者」の底知れぬ怖さなのかもしれない。(つづく)

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