「ドゥルーズ 解けない問いを生きる」から思う、最古と最新をつなぐ感覚

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確かなものが何一つない時代に書くこと

何か話そうとしたり、こうだと結論を伝えようとしたりするたびに、
「これにはこういう批判もあるぞ」
「証明するデータについてはよく知らないな」
など、あらゆる角度から反証できるかもしれないと恐れてしまいます。

もちろん、自分の主張を客観的に見つめた上で、他人に話すということは大切です。しかし、どこまで自分の意見を一歩下がって留保すればいいのか、よくわからなくなってきています。

その理由の一つは、Twitterのように炎上しやすいSNSを日常的に使っているからかもしれません。Twitterのタイムラインでは常にあちこちで火の手が上がっています。どんなに納得できるつぶやきでも、反対意見はつきものですし、まったく理にかなっていない、いいがかりレベルのものでさえ、Twitterの中では烏合の衆が闊歩しているからです。

一つ一つの意見や反論のスレッドを見続けているうちに、自分の言葉で表現することの怖さと危うさを感じるようになりました。割り切ればいいのか。反対意見など無視して言いたいことをいえばいい。言ったもの勝ちだ、などという声もよく聞きますし、一理あるとは思うのですが、なかなかそこまでさっぱりできないのも確かです。

専門家でなければ意見を裏打ちする科学的データによるコメントがしづらくなっている一方で、匿名の素人でさえ過激な意見ほどネットで拡散しやすくなっている時代でもあって、玄人と素人の逆転だったり、ネットの中でもごった煮状態だったり、自分はどういうスタンスで言葉を用いればいいのか、途方に暮れてしまいます。

解けないと問いに救われる感覚

そんなとき手にしたのが「ドゥルーズ 解けない問いを生きる」です。

このタイトルだけでも気持ちが少し楽になりました。

つまり、私は常に解けない問いを追い続けているのかもしれないということ。さらに、解ける問いなど、そもそも成立しないのではないかということ。

最近感じている時代に取り残されているような感覚。これは、時代についていけていないのではなくて、ついていくことがもはや不可能で、そこから一度下りていくべきではないか。そんな気づきをタイトルや最初の数ページをめくりながら、感じました。

人間ならではの愚かさ。
人間臭いだらしなさ。

スマートで効率が第一とされて、生身の人間が生み出す実感より、頭脳がどこまでもバーチャルに拡大していくことを良しとする時代にあって、きれいなものと汚いものとのバランスをもっと取れないものか、と考えてしまいます。

最古のものと最新のもの

私たちはアナログのものをすべてデジタルに変換しようと試みています。

それはここ数十年で果てしなく行われていて、記号に換算することが是とされる世界です。

しかし、アナログからの産物をこの世に形づくってきた人間も、極めてスマートで合理的な世界であるデジタルを操る人間も、すべて矛盾に満ちていて、あまりに誤りが多く、感情は捨て去れず、そして感情自体をもはや持ち合わせないまま生まれて来たかのような現代人も多くて、生まれた瞬間からただ生きながらえることを求められるようになりました。

最近、東京ではAIと人文知の関係を深めたり、未来と人間そしてテクノロジーとの関係性をどう図っていくかを考察する展覧会や講演会、イベントなどが増えています。

私は、15年来、全国の神社巡りをライフワークとして来ました。そして生業としてライターを続けています。

神社という古代からの脈絡はいわば最古のもの、WEBやITといったツールを使っていくライターは最新のもの。

最古と最新を結ぶ役割があるのかもしれないと思うこともあります。

こうした感覚はあくまで個人的な信念に根ざすもので、ライターという社会の中の職業には影響がないかもしれません。

ただ、あらゆる極端なものをつなぎ合わせて、どうにか私の中にぷかぷかを浮かばせておきたい。

そんな願いを思いつづける毎日です。

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