ものごころがつかないところへ、また

事実、すべての人間はその(いわば)日常の人間の他に、高次の人間をもその内部に担っている。

高次の人間は目覚めさせられるまではいくらでも隠れたままでいる。この高次の人間を目覚めさせるには、各人が自分の力に頼るしかない。

超感覚的認識へ導くところの、各人の中には微睡んでいるあの高次の能力もまた、高次の人間が目覚めぬ限りは、隠れたままの状態を続ける。

ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

意識が目覚めているということ

ものごころついたときから<意識>が目覚めていた。

世間では直感や霊感、霊能力などと呼ぶ基礎になるものだ。

しかし、意識が目覚めるというのは、仏教でいう悟りとはまた異なるものなのだと思う。

いや、悟りはつい一般的に涅槃のようなイメージを持ってしまうけれど、実際は仏の道で生きること、つまり自分が本来の自己であると認めて気づくという出発点に近いようだ。

とんち話でおなじみの室町時代の禅僧・一休宗純は、青年期、琵琶湖畔で座禅中に烏の鳴き声をきっかけに悟りを開いたいわれている。

その後の、一休宗純が見える世界は、それまでとは反転していたはずである。

とはいえ、この世で生きること、修行を続けることの大変さは変わらなかったのではないか。

ただ、ものの見え方の角度を変えられるようになったことで、深い自己を取り戻せるようになったにすぎないのではないか。

意識が目覚めていることは、人の優劣を測る物ではなくて、単に状態を指すのだろうから。

霊能力があるといえば持って生まれたのだろうし、ないといえばそれでもいい気もする。

霊感でも直感でもいいのだけれど、生まれたときからこの状態が当たり前だったので、ずいぶん大きくなるまで、他の人はそうじゃないというものに気づかなかった。

理解と愛情は違う

よく私は人間関係で何か考えるとき、

「『理解』と『愛情』は違う」

という、学生時代、影響を受けた友人の言葉を反芻する。

人は、相手をまったく理解しなくても、愛することができる。

ただ存在として愛するだけですべてが完結する。

しかし、相手に理解を求めることと、愛情を注ぎ、そして愛情を返して欲しいと願う気持ちが人には拭いようもなくあって、そこでその人間関係に対する認識がずれていく。

私たちは、つい、自分を理解してくれることが相手の愛情だと思いたいものだし、相手を理解していることが、愛情だと勘違いしがちだ。

夫婦関係、親子関係、友人関係など、そうした行き違いはそこかしこで日常的に起こっている。

もし、妻が、夫が、子が親が、友人が、自分を理解してくれない、理解してくれていないとなったとき、どういった思いになるだろうか。

無条件の愛と呼ばれるものは、何も絶対神のような果てしない愛とまで考えなくても、きっと理解よりも愛情を優先すること、自分を相手に証明したり、証明させようとするのではなくて、ただ相手の存在を受け入れること、認めることに尽きるように思う。

残念ながら、霊感や霊能力があることと、意識が目覚めているという状態は、似ているようでかなり違っている。

親戚に霊感が強いだとか、霊が見えるだとかいう人はまれにいたりして、そして幸いなことに、家族の中にストレートな直感を大切にしている人はいたものの、霊能力であったり目覚めた意識を持っていることはなかった。

そのため、ずいぶん大人になってから、さりげなく霊能力やヒーリングのようなものを自分も持っていた話を振ってみても、家族はピンと来ていなかった。

しかし、私の根っこの部分、本当に物心ついた頃から理解してもらいたかった、家族にこそわかって欲しかったこうした要素を、たとえ理解してもらえなかったとしても、寂しくなかったわけではないけれど、愛情を持って育ててくれて、接してくれたという事実は変わらない。

その一点で、私は何とかこうやって大人になっている。

すべてが幻想であるという不安

ただ最近私は、この生まれ持ってのほぼ他人には理解してもらえないものが、果たして本当に自分のものなのかという疑問を抱き始めた。

映画『マトリックス』の世界のように、この思考や感覚はすべて壮大なフィクションの内側にあって、私は本当は生まれてもいない、死んでもいない、はたまたひたすら幻想や幻覚、幻視、幻聴の中で一生を終えるのを待っているだけなのかもしれないという不安である。

意識が目覚めていることはともかく、霊能力や直感というものは、私が現実に生きてきた存在の根底を貫いている。

そのため、私は常になんともいえない直感や感覚を最優先にしてきた。

言葉もしくは意識化される事象に先だって、私の存在の大半を直感が占めている。

直感がそのまま行動原理になるので、他人はおろか自分自身にもその行動理由を説明することができない場合が多い。

だがそれは、この社会という合理性とすべてを意識化して言語に換算しなければいけない空間においては、受け入れられがたい姿勢だ。

いや、私のこうした直感を最優先する言動は、私が培ってきた現実認識において周囲に受け入れられないとずっと諦めてきた。

直感を言語に変換し続けた果てに

やがて、成長して知恵がつくようになると、私はひたすら正しいと確信を持つ直感をどうにか社会に受け入れてもらえるようにしなければと苦心した。

そこで、自分の直感や本心、本音とはまったく異なる理由を社会に受け入れられやすい言葉に当てはめる作業をずっとしてきた。

直感で行動するのも問題がない場合もあるけれど、たいていはわがままだったり、自分勝手だったり、自重できない、もしくは空気が読めないといった印象を周囲に与えてしまう。

よく子どもが、学校に行きたくないという意思表示をうまくできなくて、お腹が痛い、というふうに身体的表現に無意識に変換してしまうことがあるが、それに似ているかもしれない。

もちろん、世の中は自分の行動を正当化する、相手に自分の思うように行動させたり認めてもらったりするのに、いわゆる理屈を整えて理解を得ようとする。

しかし、私の場合、もっと根本的な欲求の部分で、直感がずいぶん絡まりついていること、さらに、霊能力や直感というどうにも説明ができないことを隠したまま相手に意図だけ上手に伝えなければならないこと。

そのあたりで、直感と言語、自己と他者といった関係性がこじれてしまったように思う。

自分でも理解できない言葉がぽんと口をつく。

普段の考えとは真逆の行動をなぜか取ってしまう。

周囲の評価は高い人なのに、どうしても影を感じてしまう。

こうした、些細な直感の土壌の上に私の思考は乗っかっていて、もういい加減、知識や思考という存在に振り回されるのに疲れてきた。

ものごころがつかないところへまた戻りたい。

それは、一周回って、直感だけですべて生きられる自由な世界なのかもしれない。

ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』