7月に入って、それまで忙しかったのが、急に時間が取れるようになりました。ほんと何年ぶりでしょうか。自分の内側に入れるような本を読んで、深い「私」と対話できている、肺の奥から呼吸が出来ている自分を実感しています。
占いとはずっと、あえて距離を置いてきましたが、最近こんな本と出会いました。
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おかげで、どうにも逃れならない私の中の半分の自分、というものを考える日日です。
生まれて来たとき、見える世界が9割で、見えない世界が1割ぐらいって感じでした。物心ついてから幼稚園に入って、小学校に上がる頃になると、「あれ、大人たちも子供たちも、どうやら見えない世界が1割もないらしい。じぶんは見えない世界の割合がちょっとずつ増えている」と。
正直、幽霊が見える、とか、そういった話は非常に些末なことです。すべての世界のベース、前提は、そうした些細なことが吹き飛ぶような嵐の中にあります。
成長するにつれて、この世の中とのギャップは少しずつ大きくなっていきます。私にとって当たり前の見えない世界から発する言葉も、感情も、気持ちも、周りの人たちからするとほとんどリアルなものではないからです。世の人にとって見える世界がほぼすべてで、見えない世界の割合は1%もないはず。
二十歳を過ぎて、人生で紆余曲折があって、そうなるとますます、私の感じている見えない世界の割合は大きくなって、今はどのくらいでしょう。見える世界が4割で、見えない世界が6割ぐらいになっているかもしれません。
といっても、見える世界の4割というのは、リアルな世の中が10に対して相対的な4割というのではなくて、あくまで自分の実感の中の4割。つまり、私はこの場所にいながら、世界を認知している感覚はおそらく2倍から3倍なんだと思います。
神話でも、半身というイメージはしばしば登場します。半分の私。半分の世界。こちらの世界とあちらの世界。引き裂かれた世界そのものは果てしがない。けれどリアルな世界には手で触ることはできなくても、遠くに壁があるのを感じます。見えている、のではなくて、あくまで感じているかどうかが、私がここにいるということを決定的に左右する問題なのです。
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