祖父の鉛筆

私にとって「書く」ということの原体験は祖父である。

田舎の貧乏農家の次男坊に生まれた祖父は、家計の負担を少しでも減らそうと勉学に励み、高等小学校から飛び級で実業学校(商業科、農業科、家政科などが合わさった地方の教育機関)に入学した。

その後、18歳で職業軍人として身を立てることを決し地元の歩兵連隊に入隊した。

「一生の職業として兵隊を選び、海外へ従軍することは覚悟していたが、まさか日本自体が負けるとは予想もしなかった」

と語っていたが、先の大戦中はおよそ8年、中国大陸を転戦した。

昭和59年、私が幼稚園から小学校に入学する時期、2度に分けて中国へ慰安旅行をした。

当時、戦友会の事務局長をしていたこともあり、慰安旅行と合わせて連隊として戦記も自費出版する。

その戦記部分の執筆と編集作業をほぼ行ったのが祖父だった。

そのため、祖父の部屋をガラス越しに通ると、いつもコピー用紙の裏紙に鉛筆でずっと戦記を書き続けていた光景が目に焼き付いている。

祖父は、連隊本部で作戦立案に関わっていたこともあり、戦後自衛隊から出版された戦争資料をもとに時間単位で連隊の作戦や行動を文章化していた。

戦友会の集まりに小学生の私もときどき連れて行かれていたが、祖父は戦友からよく「日付や時間まで覚えてますね。文章を読んで思い出すことが多かった」と声を掛けられたのを覚えている。

祖父が戦友会の事務局長をしていたおかげで、わが家には家庭に業務用のミタのコピー機があった。トナーがなくなったり、故障したりすると営業のおじさんが家にやって来た。修理する様子を眺めるのが好きだった。

小学校に上がる頃には、用紙詰まりやトナーの交換くらいは自分でできるようになっていた。

それまで手書きの原稿を印刷業者に渡していた祖父が、執筆作業を効率化するためにワープロを購入した。

私が小学校4年生のときだ。

祖父もかな入力でタイピングを覚えてスピードはゆっくりながら鉛筆でまとめた下書きをワープロ入力していた。

私もちょうど作家や文豪に憧れがあった時期で、ワープロで何か随筆みたいなものを書きたいと思い、祖父のワープロを借りてはローマ字入力を覚えた。

そのうち、祖父からときどきタイピング入力を頼まれることになった。

戦前生まれの祖父が書く旧漢字や軍隊用語などを逐一確認していく。

例えば、「連隊」を旧漢字では「聯隊」と書く。

その意味の違いについて祖父は「『連』は単なる集合体だが、『聯』には有機的に連携して動くという深い意味がある」と話していた。

今から思うと、校正、編集のような作業のやり方を自然に覚える良い機会だったのかもしれない。

子供の私にとって、文章を書くということは、祖父が戦記を書いていたような事実を客観的に正確な言葉選びで書き進めるものだ、という意識が強烈に植え込まれた。

作家や文豪に憧れて、原稿用紙や万年筆で小説や随筆の真似事を書くのは、何かを生み出すという点では夢の世界のようであり、児戯ともいえ、どうしようもなく引け目を感じたのは確かである。

自分の体験した戦争体験をあくまで客観的に資料を使って正確に記載しようと努めていた祖父の姿。

鉛筆から生まれる祖父の字を思い出す度に、書くという行為の大きさを思い、いつまで経っても筆が進まない。

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